2012年09月30日

原田正純追悼講演会

原田正純追悼講演会(主催:水俣フォーラム)が29日、有楽町の朝日ホールで行われ参加してきました。
原田先生と親交のあった8人の方(柳田邦男さんは欠席のため、前日に届けられた原稿の代読)が、原田先生との思い出を話しました。

6月11日に原田先生が亡くなってからもうすぐ4ヶ月。
原田先生との思い出を私なりに書いたものを公開します。


・・・・・・・・・・・
原田正純さんが6月11日、午後10時12分、急性骨髄性白血病のため亡くなった。77歳
だった。

●最後は自宅で

4月末から日本赤十字病院に入院していたが、5月初旬、ご自身の意思で退院され
た。血液のがんを患っていたが、自宅では抗がん治療を行わず、減少する血小板
を補う輸血だけを定期的に受けていた。

すでに60歳直前に胃がんの手術をし、06年8月には脳梗塞の発作におそわれ、07
年9月には食道がんの手術を受けた。血液のがんとは2011年から闘っていた。

自宅療養中は、アマリア・ロドリゲスの「暗いはしけ」を聴きながら、青春
時代をふりかえり、妻の寿美子さんが大事にされていた自宅の庭をながめながら
過ごした。見舞客を笑顔でむかえ、亡くなる一週間ほど前の6月3日には、家族で
結婚45年を祝った。

最期は、妻と二人の娘、弟に囲まれて息をひきとった。

葬儀は家族だけで13日におこなわれ、14日のお別れ会には1000人近くが集まり、
原田先生との最期を惜しんだ。

・・・・・・・・・・・
●被害者によりそう医師

1934年鹿児島県に生まれた原田正純さんは、熊本大学医学部を卒業(59年)した
翌年、医師国家試験に合格。61年に初めて現地調査のため水俣入りをした。熊大
医学部助手、講師、助教授をへて、99年に熊本学園大学教授、同大学水俣学研究
センター長、2010年に退職し研究センターの顧問に就任した。

水俣病の被害者に正面から向き合う医師としての顔以外に、三井三池炭鉱爆発事
故(1963年)の一酸化炭素中毒患者や、カネミ油症被害者にもよりそう医師だっ
た。世界各地で水銀問題、公害問題に携わる人からの弔意のメッセージも次々に届
いた。

水俣病患者のなかでも、幼少のころから原田先生とつきあいのある胎児性・小児
性患者は、6月初旬、最期のお別れになるかもしれないという覚悟のもと、原田
先生を見舞った。

胎児性水俣病患者・半永一光さんが撮った原田先生のアップの写真は、手ぶれがひどいが、それがかえって、原田先生の笑顔を輝かせる素敵な写真にした。原田先生と半永さんのこれまでの交流の全てが凝縮されているような、とても暖かな一枚だ。

胎児性患者の永本賢ニさんは、原田先生が水俣に診察に来たときにもっていたカバンの中身を覚えていた。カバンのなかは、子どもにプレゼントする人形でいっぱいだったそうだ。そんな話しを原田先生のご家族としているのを、原田先生は、静かに笑顔で聞いていた。

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6月12日、原田先生の訃報に、胎児性・小児性水俣病患者が通う「ほっとはうす」の患者はショックを受け、涙するものもいたという。

熊本水俣病第一次訴訟の原告団長をつとめた渡辺栄蔵さんの孫・渡辺栄一さん(60)は「残念だ」と電話口で私に語った。「原田先生との思い出は、一緒にヨーロッパに行ったこと」。栄一さんは1977年、ポーランドで開催された環境セミナーに、当時、熊本大学助教授だった原田氏や支援者らと出席した。


●個人的な思い

訃報がネット記事に流れだした11日の深夜から、私の心は、水俣病の被害者に寄り添い続けた原田先生を失った悲しみ、喪失感ととともに、これからも水俣病事件の行く末をしがみつくような覚悟で追いかけていかなくては、という気持ちが同居していた。

私が最後に原田先生にお会いしたのは今年の1月、水俣で開催された水俣病事件研究交流会の会場だった。同じ会場で続けて行われた「溝口秋生さん頑張れ 水俣病認定制度の根本を問う水俣大集会」では、原田先生はお疲れになったのか、最初に話をされて、集会の途中で退席されてしまった。

これまでにも何度か原田先生にはお会いする機会があったが、この日に限って私は、原田先生に著書へのサインをお願いした。そのとき、その場に居合わせた知人が原田先生とのツーショット写真を撮影してくれるという機会にも恵まれた。しかしこれが最初で最後の写真になった。

サインをいただいた本は原田先生が「このままでは多数の水俣病患者たちは救われない。その想いで一気に書いた」という『慢性水俣病 何か病像論なのか』だった。原田先生が「挑発の書」と呼ぶ書だ。

原田先生に最初にお会いしたのは4〜5年前だった。
日本環境会議(JEC)の会議の席だった。原田先生はJECの代表理事だった。環境問題の現場を見ることを大切にしているJECは、2008年には、広島県福島市の鞆の浦を訪問。道路開発か景観保護を優先させるかでゆれる地域の人たちの話を聞いた。
同行した私は、この旅で原田先生のお連れ合い、妻の寿美子さんとお会いした。このころ、原田先生の出張先には、常に寿美子さんが同行されていて、その後、東京・立川の講演会でもお会いした。

鞆の浦では仙酔島に宿泊し、夕食後の宴会では、浴衣姿でリラックスされた原田先生の姿が思い出される。原田先生からプレゼントされた『水俣病小史』というブックレットは、ページ数は薄いが、内容は濃く、今でも手元において活用している一冊だ。

●患者に学ぶ

原田先生がよく話されたのが、水俣に通いだしたころ、二人の息子をもつ母親に叱られたという話だ。

縁側で遊ぶ兄弟の症状が全く同じだったので、母親に二人とも水俣病なのかと聞いたところ、「お兄ちゃんは水俣病だけど、弟は違う」というので、どうしてかとたずねると、母親は「先生たちがそういっているじゃないですか」と怒った口調でこたえたという。

母親によると、兄は魚を食べて発病したから水俣病だが、弟は生まれたときから病状があったので水俣病ではないのだという。確かに水俣病は魚を食べて発症するものだ。原田先生も一瞬納得した。すると、母親は続けて、

「先生たちは魚を食べないと水俣病にならないといっているけど、私はそう思っていない」と続けた。

母親と家族は、みな水俣湾の魚を食べていたと。
夫は水俣病で亡くなり、長男は小児水俣病(幼少時に発病)になった。その間、ずっと長男と同じ食事をしてきた母親が次に出産した弟は、うまれながらに障害をもっていた。母親には、ほとんど水俣病の症状がみられないのは、妊娠中に体内の水銀がおなかの子どもにいったのではないか−―。そう母親は自分の考えを話した。

原田先生の頭には、胎盤は毒物を通さないという医学の定説がよぎった。しかし、母親の話を「素人考え」として聞き流さなかったことが、後の胎児性患者の水俣病認定につながったのだった。

母親の名は胎児性水俣病患者・金子雄二さんの母親・金子スミ子さん(81)。生前、原田先生が切望してたスミ子さんとの面会は、5月に実現した。

原田先生は固定概念に縛られない人だった。だからこそ、患者の声や現場から学ぶことを実践し、水俣病事件の解明に多大な貢献をした。

患者の言葉に耳を傾ける−−。このことについて原田先生はあるドキュメンタリー番組でこう医学生に語っている。

「強いものと弱いものの力関係が違うとき、中立の立場をとるということは、強いものに組することにほかならない。医者は患者の声をきく・・・」

原田先生が先ほどの「挑発の書」を書かなければならない状況にあったのは、水俣病の被害者がおかれている状況に、医学者、専門家が向き合ってこなかったからではないか。

ガン患者の場合、進行の程度によって、ステージ1、2と分類することができる
が、ガン患者はガン患者である。ところが水俣病においては、行政認定された水
俣病だとか、司法認定された水俣病、政治解決による水俣病といった奇妙な表現
が広く浸透している。メチル水銀を経口摂取した人は程度の違いがあれど、みな
水俣病なのだ。


9月29日の追悼講演会で川本愛一郎さんが、原田先生の検診時のエピソードを紹介していた。
昨年行われた患者掘り起こしの一斉検診でのこと。
70代の夫婦がみえた。漁師で、結婚して50年。同じものを食べてきた二人だが、妻の水俣病の症状は軽く、夫は重い。
ふつうの医者は、妻は軽く、夫は重いとそのとおり書く。ところが原田先生は、首をひねりながら、「おかしいね。流産したことはありますか?」と妻のほうに聞いた。
すると妻が「4回しました」とこたえたそうだ。
原田先生は、うなずいて、「つらかったね。その赤ちゃんが、毒を吸い取ってくれたんだね」と話したという。

これは別のところで聞いた話だが、家族に認定患者がいる女性が、かつて医者に水俣病かどうか診てもらいに行ったら、ひどく嫌味をいわれた。そのときの医者の言葉で、その女性は、水俣病かどうか調べることを諦めてしまったという。
もう何十年も前のことだから、といった感じで、あっけらかんと話してくださったが、この女性のように医者にいやな思いをさせられて、水俣病の申請を断念した人はほかにもいるだろう。


追悼講演会で「原田さんは、ニセ学者には全身で怒っていた」と話した佐高信さんは、雑誌『週刊金曜日』に小出裕章さんのことを書く際、原田先生に電話をしたところ、
「自分の場合はチッソという会社(が相手)でした。電力はもっと大きい会社だから、もっと大変だったでしょうね」と語ったとのこと。小出さんを気づかうやさしさを感じたという。

最後に。
原田先生は、水俣病を伝えていく人が必要だと考えていた。
それは当事者である患者だけが担うのではいけないとも。
水俣では、水俣病の語り部を育てる勉強会が発足したそうだ。
私もこれまでに取材させていただいたことを伝えていきたい。
私の声は小さくても。


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↓6月に発表した関連記事↓

水俣病事件の初期を知る第一世代の同志・桑原史成さん、原田正純さんを語る

「水俣病の大なる原因は人を人としてあつかわなかったこと」−原田正純先生をしのぶ

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慢性水俣病・何が病像論なのか/原田正純
原田先生が「このままでは多数の水俣病患者たちは救われない。その想いで一気に書いた」挑発の書


水俣病小史/高峰武
注意:2008年3月に『水俣病小史』を刊行後、2008年から2012年2月までの事象を追加した「増補版」が出版されています。水俣学研究センターでお求めになれます。
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2012年09月13日

蒲島県知事は「本当にやってくれるのかな」と水俣病の患者さん

9月12日の熊本日日新聞に、以下の記事が掲載されています。

水俣病の胎児性患者らが、熊本県知事にケアホームの建設を訴え、県知事が「積極的に検討する」と述べたという内容です。

現在はご家族と生活されている40〜50代の患者さんたちですが、
彼らを介護するご両親は高齢です。(親も子も水俣病であるケースも)
ご両親亡き後の暮らしがどうなるのか、とても心配されています。

記事には書かれてませんが、こんな会話があったそうです。

ケアホームが欲しいという患者さんたちの要望を聞いた蒲島県知事が、
明水園に親と一緒に泊まることができる施設(注:ケアホームではない)をつくったとアピール。

鬼塚勇治さん「街中がよか」
半永一光さん「〜〜〜〜」

半永さんは言語障がいがあるので、彼の言葉を理解することは簡単ではありません。
しかし、長年つきあいのある加賀田清子さんは、半永さんの言葉がわかります。
つかさず、

加賀田清子さんが、「街のなかがいいって」
と、半永さんの言葉をフォローし、県知事に伝えたそうです。


私も水俣滞在中は、半永さんや鬼塚さんとの会話で、何度も清子さんに仲介役になっていただいたことがあります。
具体的な会話のやり取りは思い出せないのですが、
半永さんがいわれた言葉が聞き取れなかったときに、そばにいた
清子さんが、「〜〜〜〜〜だって」
と、教えてくれるのです。
私が「〜〜〜〜〜だったんですね」
と半永さんに確認すると、うん、うん、と笑顔で、大きく頭を縦にふって、「そう、そう」と意思表示してくれるのでした。

県知事のいう施設は、患者さんたちがいうケアホームとは違います。
場所自体は、不知火海が見渡せる素晴らしく景色のよいところにあるのですが、おそらくその点は、健常者にとってはプラス評価であっても、日常的に同じ景色が見える施設に入院されている半永さんや鬼塚さんにとっては、いつもの景色です。

自分で車が運転できる人なら、風光明媚な場所に住んでいても、必要なときは、外食やショッピングができる市街地まで車で行けばいいので不便だとは感じないかもしれません。
しかし、移動にも食事にも介護が必要な彼らの状況を考えると、別のことが見えてきます。

「街中に住む」ということは、
単に生活するうえで便利であるだけでなく、

周囲に人の気配がある。活気がある。
人が行き交う街中で暮らしている。

ご自身の存在が他人と交わる、という点にポイントがあるのではないでしょうか。

水俣を訪問中、街で鬼塚さんに会うと必ず
「明水園にも来て」
といわれます。
たまたま私は、街で鬼塚さんに会うことができました。

しかし、外出のできない患者さんが、明水園にはいます。
彼らに会いにきて!と、鬼塚さんは常に私に会うたびにいいます。

そして私は
明水園のある場所と、人が行き交う場所(街)との距離感を感じるのです。
水俣病患者さんが入院している施設との距離感は、
地理的な距離感だけでなく、気持ちの上での距離感にもつながらないでしょうか。
「水俣」というイメージから、彼らが外されてしまう距離感。
それが意図的でないとしても、out of sight, out of mind という言葉があるように、
目に入らないものは、忘れられていきます。

このことが「街中がいい」という患者さんの言葉に含まれている気がしてなりません。


以前、加賀田清子さんの車イスを押しながら水俣市内の商店街を歩いていたら、すれ違った小学生の女の子2人が、「清子さん、こんにちは」と声をかけてきました。

お知り合いなんですか?と女の子たちに聞くと、小学校に清子さんたちが水俣病の授業をしに来てくれたことがあるとのこと。2人の女の子は学年は違ってましたが、2人とも、清子さんの話しを聞いたことがあるとのことでした。

そうだったんですね、といって、さようなら、と別れました。

こういう会話が生まれるのは、街中が断然多いでしょう。

*  *  *  

本日、小児性水俣病患者の渡辺栄一さんと話しました。
蒲島県知事に会った話になり、
「ケアホーム欲しいって」
「みんなの言っていることを信じて。お願いします」
と知事に伝えたことを教えていただきました。

私には、
「11日に、(県知事と)しゃべったよ」
「僕の場合は、(ケアホームに入れるのは)無理かもしれないけど、僕も入りたい」
「本当に(知事が)やってくれるのかな」
とも。

知事は話は聞いてくれた。
後は、行動にうつしてくれるのか。

そこが栄一さんは気になるようでした。

両親も兄弟も亡くなっています。栄一さんは6月で60歳になりました。

胎児性患者らのケアホーム建設 知事「積極的に検討」
「ほっとはうす」で患者側の意見を聞く蒲島郁夫知事(右)=11日、水俣市
 水俣病患者らの意見を聞くため、水俣芦北地域を訪れていた蒲島郁夫知事は11日、胎児性患者らが介護を受けられる共同住宅・ケアホームの建設を前向きに検討する意向を明らかにした。
 ケアホーム建設は、水俣市の事業所「ほっとはうす」に通う胎児性患者の加賀田清子さん(57)らが、親の死去や高齢化を背景に蒲島知事に要望した。知事は「皆さんに安心してもらうことが重要」「県で積極的に検討する」と述べた。
 県側は、重度の患者が入所する水俣市立明水園を胎児性患者の親も入所できるよう改装したことを実績として強調。これに対し、患者側からは「買い物などに便利な市街地に住みたい」といった声が強かった。松永幸一郎さん(49)は数年前から車いす生活を余儀なくされているとして、補償等級変更への県の協力を呼び掛けた。(石貫謹也) 熊本日日新聞 2012年09月12日
http://kumanichi.com/feature/minamata/kiji/20120912001.shtml


「東京電力」研究排除の系譜  斎藤貴男


消費税のカラクリ  斎藤貴男
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2012年09月03日

吉永理巳子さんの講演「語れなかった水俣病の父を力として」 #minamata

吉永理巳子さんの講演会に行ってきました。
「語れなかった水俣病の父を力として」(水俣フォーラム主催)

もう一度、心のなかでかみ締めながら、一部補足しつつまとめてみました。
こちらにまとめたのは、全体のお話しのうち、3分の1くらいです。
講演内容の詳細は、水俣フォーラムの出版物に掲載されると思われます。


・・・・・・・・・・・・・・・・
吉永理巳子さん 1951年(昭和26年)水俣市明神生まれ。
・・・・・・・・・・・・・・・・


父は36歳で劇症型の水俣病を発病。
当時は「奇病」患者として周囲から見られる。
2年後に亡くなった。

漁師の祖父は発病と同時に寝たきりになり、9年後、水俣病で亡くなった。

いとこには水俣病患者がいる。
私にとって恥ずかしい存在だった。
どうして、人にいえない病気(奇病)になったのか、と思っていた。
町でいとこに会っても
声がかけられなかった。
水俣病患者の親戚だと思われるのが
いやだったから。

長い間、水俣病の本は読んだことがなかった。
原因も知らなかった。
ひたすら逃げていた。
逃げとおせると思っていた。

最初に結婚した夫が所属していた青年会議所で
水俣病についてとりくむことになり
夫の友人が、水俣病の本を夫に貸してくれた。
その本をたまたま私が開いてしまった。
私は43歳だった。
本を読んでみて、初めて、
水俣病は我が家だけの病気ではなかったと気づいた。

幼いころにみたネコが発病して死んでいく風景。
あれは水俣病だった。

父は自分が何の病気が知らないまま
死んでいった。
あれは水俣病だった。

もっと水俣病を知りたいと思うようになった。

父は、もっと生きて、たたかいたかったんだろうな
と、考えるようになった。

もし父が生きていたら、
川本輝夫さんたちと(チッソ本社に座りこんで)自主交渉をしていたんだろうなと。

父のことを考えたら
涙が止まらなかった。

1996年、
東京で行われた水俣・東京展に、父の遺影を展示してもらった。
母と上京して見に行った。
水俣病で亡くなった方の遺影(約500枚)と対面した。
初めて見る顔がほとんどだった。

水俣病は、私の家族だけにおこった病気ではなかった。

遺影の一人ひとりを見て、
それぞれの人生を考えた。

500人の遺影の前に立つと
「あんたは そんな人でよかっかい?」
と、自分を問われている気がした。

母は津奈木の農家出身で、
結婚を機に水俣にきて、タチウオの刺身を初めて食べた。
もし母が刺身好きだったら、
私は生まれていなかったかもしれない。

父のような(重症な)症状だけが水俣病だと思い込まされていたが
私自身も水俣病だ。


・・・
1996年 理巳子さん 政治決着で水俣病の「救済」対象者になる。
1997年 水俣市立水俣病資料館の語り部になる。
・・・


どうやって私は水俣病のことを語りついでいったらいいのか。
公式確認から56年がたつのに
なぜ水俣病は終わりきれないのか。

語り部をやっている水俣病資料館に
いちばん来てくれるのは小学生。
もっとも来てくれないのは水俣市民。

資料館は市民がきやすい場にしたい。
そこで事実を知る。
事実から逃げない。

来年で20年目を迎える資料館には
水俣病で亡くなった方の遺影の展示がない。
なぜ、亡くなった方の顔がだせないのか
考えてもらいたい。

小学生の感想で多いのが、
ネコがかわいそう、というもの。
ネコのフィルムが(資料館の展示に?)多いからだろうか。

ネコだけでない。
人間が何千人と亡くなっている。
そうした方の顔が見えないのです。
命が見えない。
恐さが見えないのです。
だから、遺影をだしてあげたい。

その人にどういうことが起こったのか
たずねてほしいのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・

理巳子さんは、理巳子さんは、水俣病を語り継ぐ会・会長として、
「水俣病資料館に水俣病犠牲者の遺影、遺品展示を」
という呼びかけをされています。


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2012年07月30日

水俣病は終わらない!8・1集会のご案内

水俣病は終わらない!8・1集会のご案内
8月1日(水)午後7時から 
水俣市公民館 2F 第一研修室


水俣病特措法の救済申請が7月31日で締め切られる中、7月だけで3000人近い方々が新たに申請をおこない、全申請者は6万人に及んでいます。一方環境省は被害者の声に耳を傾けることなく、締め切りを強行しています。この特措法手続きや不知火海沿岸住民検診によって被害実態が益々深刻で広範囲に及んでいることが明らかになりました。被害地域は天草上島から下島に至る不知火海全域に及び葦北郡や球磨郡、また鹿児島県伊佐市など行商ルートを通しての被害が明白になっています。また、年齢や暴露時期についても昭和44年以降に生まれた方についても、感覚障害の所見がある方、水俣病症状がある方が数多くいることも明らかになってきました。そして、その事実に目を瞑り、被害者の多くが切り捨てられているのが現状です。
また、被害は水俣市民、不知火海沿岸住民すべてに及んでいることもようやく事実として認識されるようになり、そのことを踏まえた新たな被害者団体「水俣病被害市民の会」も結成されています。そして、本来の被害賠償を求める公害健康被害補償法(公健法)に基づく認定申請をおこなう動きも出てきました。公健法の認定基準である52年判断条件も大きく揺らいでおり、溝口訴訟、関西原告Fさん訴訟の最高裁での決着が図られることになります。水俣病被害の全容解明もおこなわず、水俣病の病像をめぐる議論を回避し、基準の誤りを覆い隠すやり方では水俣病は解決しません。
特措法は加害企業チッソの分社化、責任の免責・消滅をおこない、水俣病の認定申請の終了・幕引きを視野に入れているものです。水俣病事件の本質的解決のためには、加害者がその責任を認め、反省し、被害の全容調査を踏まえ、認定制度の抜本的改革が必要です。特措法救済期限終了を機に、「水俣病は終わらない8・1集会」を関係被害者団体等が集まり、今後の課題を考えていきたいと思います。ぜひ集会の趣旨に賛同いただき、多くの皆さんの参加をお願します。

報告予定
1、 地域外・年齢制限等の特措法の課題 不知火患者会
2、 急増する相談者、その中から見えてくる課題 水俣病センター相思社
3、 第2世代訴訟と認定申請で闘い続ける 水俣病被害者互助会
4、 溝口訴訟が切り開いた認定制度の矛盾 溝口訴訟を支える会
5、 不知火海大検診で見えてきた被害の全容 不知火海沿岸住民健康調査実行委員会
6、 公健法による認定申請による闘いを私たちは始める。  水俣病被害市民の会
7、 その他会場から発言


呼びかけ団体
水俣病不知火患者会・水俣病被害市民の会・水俣病互助会・水俣病被害者互助会・水俣病患者連盟・水俣病東海の会・水俣病センター相思社・溝口訴訟を支える会・不知火海沿岸住民健康調査実行委員会ほか
連絡先;水俣市南福寺108
TEL/FAX 0966-63-8779、TEL 0966-62-7502


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2012年06月25日

「水俣病の大なる原因は人を人としてあつかわなかったことにある」−−原田正純先生をしのぶ



「水俣病の大なる原因は人を人としてあつかわなかったことにある」−−原田正純先生をしのぶ

という追悼コラムを、オルタナオンラインに書かせていただきました。

原田先生.JPG


2010年5月1日に水俣で撮影されたこの写真は、報道写真家・桑原史成さんが企画された写真撮影の現場で、私が撮影したものです。桑原さんが撮影されてきた水俣病の患者さん、ご家族、支援者らが呼びかけにこたえ、同じ場所に集まったのです。ふだんの生活ではあり得ない再会のドラマもありました。
もちろん、原田先生と患者さんの再会も。
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2012年06月11日

6月17日 シンポ 再々度、水俣病未認定問題を問う #minamata

チラシから転載します。
(会場までの地図付きのチラシは化学物質問題市民研究会のサイトのコチラからダウンロード可)


溝口訴訟・Fさん訴訟上告審     国・熊本県の「特措法による幕引き」破綻  
    シンポジウム 再々度、水俣病未認定問題を問う

水俣病はこの5月で公式確認から56年が過ぎましたが、2009水俣病特別措置法による未認定患者の救済は、「7月末で受付締め切り」が強行されんとしています。不知火海対岸・天草で潜在患者への住民検診や申請呼びかけのさなか、特措法の申請者が月々増加する中での、見切り発車ならぬ見切り停車。1995年に続き今度こその未認定問題決着をめざして国が標榜した「あたう限りの救済」は看板倒れ、なおも放置される未認定患者が生ずることは必至です。
他方、2月に高裁で逆転勝訴した溝口チエさん棄却取消・認定義務付け訴訟に対しては、被告の熊本県知事が非情な上告。逆転敗訴により原告が上告した大阪のFさん訴訟ともども、最高裁の水俣病判断が再び問われる事態となっています。高齢の原告が裁判を更に闘わねばならないことには心が痛みますが、かくなる上は、国が頑なに護持し続ける35年前の「水俣病判断条件」の狭隘さを上告審でたださねばなりません。
<来る2013年の国際水銀条約締結までに水俣病の幕引きを図りチッソ免責を果たす>という国・県の目算はすでに破綻しています。東日本大震災の被災地や原発状況も息詰まる展開が続きますが、今回は「水俣病未認定問題」という原点を、現地の皆さんや弁護団のお話からじっくり考えます。皆様のご参集を呼びかけます。

日時  6月17日(日) 12時半開場  午後1時―5時  500円(高校生以下無料)
会場  YMCAアジア青少年センター (在日韓国YMCA) 9階 国際ホール 
(2010年10月以来5回のシンポジウムと同じ会場です)
 東京都千代田区猿楽町2−5−5(JR水道橋から徒歩5分 JRお茶の水から徒歩7分)   
       http://www.ymcajapan.org/ayc/jp/hotel/hotelindex.htm    TEL 03-3233-0611


開会あいさつ                鷹取良典(シンポジウム実行委員長)
報告 溝口さん提訴に至る経緯        高倉史朗(ガイアみなまた)
講演 溝口訴訟・福岡高裁判決と上告審    山口紀洋(溝口訴訟弁護団)
報告 特措法で収まらぬ天草・山間部の潜在患者  谷洋一(水俣病被害者互助会事務局)
   胎児性患者・家族の現状          加藤 タケ子(ほっとはうす施設長)
水銀条約案 第14条「汚染サイト」の問題  安間武(化学物質問題市民研究会)
溝口訴訟上告取下げ要請署名について     平郡真也(溝口訴訟弁護団事務局)
討論 (特措法7月締切問題、2つの行政訴訟上告審の支援等)、アピール採択
懇親会  午後5時30分―7時30分、(当日案内、別会計)
                                                

主催  チッソと国の水俣病責任を問うシンポジウム実行委員会   
〒101−0063  東京都千代田区神田淡路町1−21−7 静和ビル1A 東京・水俣病を告発する会 気付   
連絡先 TEL/FAX 03- 3312-1398(昼留守録)     メール y-kbt@nifty.com(シンポ実行委事務局) 


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2012年05月28日

ギャラリー「てんゆう花」(新潟市)訪問

新潟市北区に3月にオープンしたばかりのギャラリー「てんゆう花」(てんゆうか)を見に行ってきました。
案内してくだっさったのは、映画「阿賀に生きるファン倶楽部」事務局の旗野秀人さん。
(旗野さんは、ほかにもいろいろ肩書きがありますが、とりあえずはファン倶楽部事務局で)

てんゆう花.jpg

ギャラリーのオーナー・高橋裕子さんの長年の夢は、ギャラリーをつくることだったそうで、退職を機に、旗野さんの職場でもある旗野住研に、建築をお願いしたのだそうです。

ということで、案内役の旗野さんは、この建物をつくった張本人でもあります。

s-R0122787.jpg
玄関にひきつめられているのは、阿賀野川の石で、
旗野さんと高橋さんで拾ってこられたそうです。

建物は2階建て。
私が訪問したときは、鳥をモチーフにしたアクセサリーの展示が行われていました。
s-R0122788.jpg
一階には まきストーブがあります。

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二階と一階は吹き抜けでつながっています。

建物には奥阿賀の杉材や安田瓦が使われているそうで、その土地にあるものが、ぎゅっとつまった空間になっています。

オーナーの高橋さんは、人と触れ合える場所をつくりたいとの思いから「てんゆう花」を始められそうで、夢を行動にうつされた行動力はすばらしいと思います。

ギャラリーオープンのパーティでは、『阿賀に生きる』にも登場する渡辺参治さんが、祝い唄を披露してくださったとのこと。

「てんゆう花」があたたかい空気に満ち溢れているのは、阿賀野川の石や杉、安田の瓦とともに、そこに生きる人々の活力が吹き込まれているからなのでしょう。

この動画は、95歳の渡辺参治さんが今年(2012年)5月4日に映画「阿賀に生きる」20周年&2012年追悼集会「阿賀の岸辺にて」で熱唱されたときの模様です。






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2012年04月27日

振返り「水俣病の教訓を次世代に伝えるセミナー」

環境省が毎年年度末に主催している水俣病をテーマにしたセミナー。
2012年は、2月27日、東京ウィメンズプラザホールで行われた。

水俣病の教訓を次世代に伝えるセミナー
〜水俣病の経験を超えて・若い世代の挑戦〜


まず冒頭、環境省特殊疾病対策室長・桐生康生氏(当時)による「水俣病を取り巻く現状について」という講演で驚いた。

驚き1:
このセミナーの目的を「正確な知識と情報を次世代に届けることが目的」と発言しつつ、水俣病の概要説明では、原因企業チッソの名前が一切でてこなかったこと。「チッソ」に変わる表現として「化学工場」「工場」という言葉を使っていた。パワーポイントには「チッソ」の文字があったのだが、なぜ口にださない?会場に、チッソ関係者が来ていたから遠慮したのだろうか。

驚き2:
水俣病に関する特別措置法による救済策を説明する際、桐生氏が、「環境省としては救済と同時に“絆”修復などにつとめていく」と、「絆」という言葉を使ったこと。広域がれき処理の受け入れ自治体探しで乱用されている(と私が感じている)、あの「絆」である。
これまでに「絆」という言葉が、水俣病関連の説明で使われたことはなかった。絆を修復するといっても、絆が結ばれていた過去があったのかも疑問だ。

驚き3:
水俣病の教訓について、予防を重視し、先手をうつことが大事だと発言していたこと。未だに被害者とは司法の場では真っ向から対立している環境省である。教訓を語る以前に、水俣病の総括も始められない状態ではないのか(水俣病は終わっていないからである)。

また、正しい知識のみではなく、「適切な知識」を広めることが重要と発言していたが、適切な知識とは、正しい知識と何が違うのか。これは、セミナーの最後に聞いたチッソ(JNC)の講演内容を振り返ってみたら、見えてくるような気がした。


今回、おそらく水俣病関連のセミナーに初めて登壇したチッソ。正確には、チッソの利益部門だけを引き継いだ子会社「JNC」の役員が話したのだが、親会社のチッソについての話しが大部分だった。常務執行役員・平田和弘氏の発言にも、驚く部分があった。

驚き1:
驚きというか、毎回感じることだが、水俣病の「患者」に迷惑をかけたという発言はあったのだが、やはり、表現は毎回「患者」であり「被害者」でない点。水俣病慰霊式でも、チッソの会長は「患者」への補償は語るが、「被害者」とは口にしない。
この文脈で「患者」が意味するのは、行政が水俣病と認めた「認定患者」のことであろう。ここ数年は年に0〜2人しか認められていない。下手をすると、年々亡くなられる患者の数のほうが、認定される数より多いかもしれない。行政が認定しない今の状態が続けば、患者数は減少していく。

一方「被害者」は、今回、細野環境大臣や横光環境副大臣がPRしている救済策の対象になる人のことである。先ほどの認定患者よりも、補償(救済策だから救済だが)内容はずっと低い。

認定患者は約2200人だが、被害者は、約9万3000人(現在PR中の救済策申請者数 約53,000人+1995年の政治解決による対象者約12,000人 +2005年以降の保健手帳交付者約28,000人などの合計だけで)。チッソが「患者」への補償を口にするとき、9万3000人の「被害者」は入っていないのではないか。

「患者」と「被害者」という言葉の使い分けに気をつけて、毎年、水俣病慰霊式でのチッソ会長のスピーチを聞く。去年も会長は「被害者」とはいわなかった。一方、環境大臣、熊本県知事、水俣市長のスピーチでは「被害者」といっている。

驚き2:
水俣病の発生時には、(原因物質である)有機水銀を検知、分析する技術が未熟だった、と発言したこと。

この発言は何がいいたいのか。

原因物質が有機水銀だと確定する以前に、チッソ工場の廃水が原因であることはわかっていた。廃水の中の何が原因なのかわからないから、廃水を止めなかったというのは、分析技術が未熟なことと関係がない。

原因物質の特定ができていない段階でも排水をとめていれば、被害はこれほどまでに広がることはなかった。まずは排水を止める。引き続き、原因物質の確定については研究を続ければいいだけの話ではないか。

食中毒をおこした弁当の回収を考えてほしい。弁当のなかの何が(ウィンナーなのか、卵なのか)原因かわからないからといって、弁当の回収を先送りにはしないということである。

驚き3:
「チッソは倒産以上の苦難を味わっている」と、被害者のいる会場で発言したこと。

チッソの後藤会長(当時)が社内誌の念頭所感(2010年1月)で「水俣病の桎梏からの解放される」と発言し、水俣病問題からの撤退を急ぐ本音を見せた一幕と同じものを感じた。



ここまで書きながら、セミナーの狙いが見えてきた。
(復習になるが)
このセミナーの目的は、水俣病の正確な知識と情報を次世代に届けることが目的。(桐生氏)
正しい知識のみでなく、適切な知識を広めることが重要。(桐生氏)
具体的には
 チッソという代わりに「化学工場」と説明。(桐生氏)
 水俣病の救済策に「絆」の修復も加える。(桐生氏)
 予防が大事。先手をうつ。(桐生氏)
 当時の技術では、有機水銀(原因物質)の検知や分析が未熟と説明。(平田氏)
 チッソは倒産以上の苦難を味わっていると主張。(平田氏)

正しい知識のみでなく、適切な知識?

セミナーでは、水俣と新潟の語り部の方、地元で街づくりなどに関わっている方の講演もあった。こうした方たちの講演とあわせて、環境省やチッソ(JNC)の講演を聞いてわかるのは、「水俣病の教訓を次世代に伝えるセミナー」という名のもとに集められた人たちでありながら、目指す方向は違っているということだった。

歴史は強者によって語られる――。
このことを肝に銘じ、被害を受けた人にとっての水俣病を、語り継いでいく必要性を強く感じた。一般的に、最も簡単にアクセスができる水俣病の情報は、環境省が発信しているものかもしれない。「水俣病の経験と教訓」といった冊子を作成・無料配布できるリソース(税金他)をもっているのは環境省だし、国際会議で各国代表・外国メディア向けに水俣病のプレゼンをするのも環境省である。外国メディアにとって、環境省が英語で無料配布している冊子は、貴重な情報源になる。

インターネットを見れば、多様な発信者による水俣病についての記述を見つけることができる。ここに可能性を感じないわけではないが、現実的には昔と変わらず、テレビや新聞が多くの人にとっての情報源であることは覚えておきたい。


プログラム(会場配布のチラシを元に編集)
13:00〜 開催主旨説明 水俣病を取り巻く現状について
環境省 特殊疾病対策室長 桐生康生(氏)

13:15〜 体験談、伝えたいこと
水俣地域語り部:杉本 肇氏
  新潟地域語り部:山田サチ子氏

14:15〜  もやい直しから「環境モデル都市」づくりへ
吉井 正澄氏(元・水俣市長)

14:45〜  (休憩)

15:00〜  水俣の挑戦 「あばぁこんね」
福田浩樹氏・高倉草児氏・澤井健太郎氏・井上章久氏

15:30〜  新潟の挑戦 「阿賀野川え〜とこだプロジェクト」
山口 庫幸氏・こっこ(板屋越由希氏・山口茉依氏)

16:00〜  みなまた環境大学カリキュラム提案賞の創設について
JNC株式会社 常務執行役員 平田和弘氏

16:15〜  まとめ 環境省


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2012年03月04日

38年目の水俣病認定をも引き延ばすのか 原告勝訴の溝口裁判高裁判決を受けて

故溝口チエさんを水俣病認定せよと福岡高裁が熊本県に命じたことを受け、
石牟礼道子さん(作家)、原田正純さん(医師)、馬場昇さん(元衆院議員)らが、
国・熊本県へ上告断念を求める緊急声明を発表。賛同者を集めています。

賛同人2.jpg


●署名用紙ダウロード先
右クリックで「名前を付けて保存」を選択するとダウンロードできます。
http://sky.geocities.jp/kushami_19791979/20120301/kinkyu_seimei_20120301.pdf
(署名用紙PDF 最首塾サイト内)

●署名用紙&署名の背景説明について
最首塾
「水俣」を子どもたちに伝えるネットワークのブログ


熊本日日新聞の記事によると、12日までを期限としていますが、
1日に行われた集会では、6日までに署名用紙に記載の住所に集約と説明がありました。

時間のない方は、署名した用紙をスキャンして、電子データで最首塾のメールアドレス宛に添付ファイルとして送付(後日オリジナルを水俣の集約先へ送付)という方法もあります。最首塾のメールアドレス掲載サイト→最首塾

国、県へ上告断念求める 原田医師ら緊急声明発表

 国の水俣病認定基準に満たない症状で認定義務付けを命じた水俣病溝口訴訟の控訴審判決を受け、熊本市の原田正純医師らは2日までに、国や熊本県に上告断念を求める緊急声明を発表した。

 2月27日の福岡高裁判決について、声明は「国の基準は十分であるとはいえないと断罪し、本来認定されるべき申請者が除外されていた可能性を否定できないと言い切った」と強調。「これ以上原告を苦しめないでほしい」と訴えている。

 声明には、水俣病事件に長年かかわった馬場昇・元衆院議員、作家の石牟礼道子さんら72人も名を連ねた。県の水俣病認定業務が国からの法定受託事務であるため、原告の溝口秋生さん(80)=水俣市=らが1日、環境省に声明書を提出した。

 原告側は上告期限の12日まで、声明に賛同する署名を広く呼び掛ける。問い合わせはガイアみなまたTEL0966(62)0810。(石貫謹也) 熊本日日新聞 2012年03月03日




(3/1環境省のある霞ヶ関で配られたチラシ内容を一部編集して転載)

2月27日 福岡高裁、
故・溝口チエさんの棄却取消と患者認定を熊本県知事に命ずる行政訴訟判決



38年目の水俣病認定をも引き延ばすのか


 霞ヶ関をご通行中の皆さん、合同庁舎五号館の各省庁にお勤めの皆さん。

去る2月27日、福岡高裁(西健二裁判長)は水俣病行政訴訟で、故・溝口チエさんを水俣病と認め、熊本県に対して「チエさんの棄却処分を取り消し認定せよ」との判決を下しました。

死亡未認定、20年放置のあと棄却・・
水俣市の患者多発地帯で暮らしていた溝口チエさんは1974年に水俣病認定を県知事に申請し、3年後の1977年に77歳で亡くなりました。検診を受けられぬまま亡くなった申請者に対しては主治医のカルテを県が収集して審査するきまりとなっていましたが、病院調査がされたのは申請から20年後の1994年。すでにチエさん主治医の病院は廃業しており、それゆえに「資料なし」として翌1995年、棄却処分とされたのです。

当時、チッソに県債で補償金を融資をしていた熊本県には「認定患者が増えることを歓迎しない雰囲気があった」(環境省懇談会での元水俣市長の発言)のです。チエさんは意図的に調査を遅らせて棄却されたとしか考えられません。遺族で長男の溝口秋生さんは毎年、チエさんの誕生日になると県に審査の進捗を問い合わせましたが、返事はいつも「審査中」というばかりでした。

解決遅い水俣病の象徴例?
公式発見から半世紀を経て、なお水俣病が決着していないのは由々しいことです。チエさんの場合、調査が延ばされ切り捨てられるまでに認定手続きの中で21年。それに納得しない遺族が提起した行政不服審査で6年、行政訴訟に移ってから一二審計11年・・・・合わせて38年がたち、長男として行政不服と行政訴訟を提起された溝口秋生さんもすでに80歳のご高齢です。

チエさん認定申請の1974年とは、どんな年?
チエさんが認定申請した1974年、環境省はまだ環境庁として発足したてで建物も別な場所でした。現在の環境省職員で入庁していたのはその年新卒の南川事務次官のみ、細野豪志環境大臣(40)は就学前、横光克彦副大臣(68)はTVにデビューし始めのころに当たるという「大昔」です。

 この上なお、上告して争うというなら、人道にもとること甚だしく、生誕112年目になるチエさんの魂もいつまでも浮かばれません。

県は原告に謝ることもしなかった
大阪高裁判決は、患者切り捨てに終始していた水俣病認定制度の誤りを正す画期的な判断で、認定基準を変えないままに低額での「特措法救済」にシフトし、それをも早期に終わらせようとしている環境省と熊本県の水俣病行政の姿勢が根幹から問われます。しかるに熊本県は、知事は選挙活動を理由に面会せず、副知事以下も、溝口秋生さんに謝罪することもしませんでした。

環境省はどうでしょう。特殊疾病対策室長のみが共用会議室で話を聞くだけというのなら、熊本県以上に不誠実な態度と言わざるを得ません。環境省は、まず、責任ある立場の人が、水俣病認定行政の長期化を原告溝口秋生さんに詫びるべきです。そして、熊本県に対し、謝罪と、上告断念と、チエさんの即時認定を、ただちに強力に指導すべきです。


上告断念と溝口チエさん水俣病認定を求める緊急集会(集会は終了)
本日 3月1日(木)午後6時15分〜8時30分  総評会館
<報告・発言 (敬称略)> 溝口秋生(遺族原告)、溝口知宏(原告家族・胎児性患者)、山口紀洋(弁護団長)、高倉史朗(患者連盟事務局)花田昌宣(熊本学園大)、谷洋一(互助会訴訟事務局)、宮澤信雄(ジャーナリスト)永野三智(溝口訴訟を支える会)、溝口訴訟弁護団事務局 
主催 緊急集会実行委/共催 水俣病溝口訴訟弁護団 チッソと国の水俣病責任を問うシンポジウム実行委員会 東京・水俣病を告発する会 

故溝口チエさんを水俣病認定せよと福岡高裁が命じたことを受け、作家・石牟礼道子さん、医師・原田正純さんらが、国・熊本県へ上告... on Twitpic
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2012年02月28日

補足「水俣と福島に共通する10の手口」 #minamata



※2012年4月20日号の『週刊金曜日』に掲載の、アイリーンさんによる、
水俣と福島を結ぶ「黒い線」という記事に、三つの手口が掲載。
@意図的なウソの流布
A防護策の放棄
Bデータ収集の放棄
このなかで、10の手口と重なるものを、以下のブログ記事に追加しています。


2月27日の毎日新聞の夕刊に、アイリーン・美緒子・スミスさんによる「水俣と福島に共通する10の手口」が掲載され、ツイッターで話題になっていました。

10の手口とは以下のとおり

 1、誰も責任を取らない/縦割り組織を利用する

 2、被害者や世論を混乱させ、「賛否両論」に持ち込む

 3、被害者同士を対立させる

 4、データを取らない/証拠を残さない

 5、ひたすら時間稼ぎをする

 6、被害を過小評価するような調査をする

 7、被害者を疲弊させ、あきらめさせる

 8、認定制度を作り、被害者数を絞り込む

 9、海外に情報を発信しない

10、御用学者を呼び、国際会議を開く

引用元:毎日新聞サイト 


この10の手口、昨年11月に行われた
「11.3 チッソと国の水俣病責任を問うシンポジウム第五回
震災・原発事故と水俣病」にて、アイリーンさんが発表されたものが発展したものだと思います。

当初の10の手口と、新聞に掲載された10の手口には多少の違いがあり、
新しく手口を追加したり、複数の手口を一つの手口としてまとめたことによるようです。

以下、昨年11月にお聞きした内容をまとめてみました。


●10の手口について
(毎日新聞掲載のフレーズとは異なりますが、そのまま掲載します)

1)非常に気をつけて、誰も責任をとらない
(毎日新聞掲載の1:誰も責任をとらない)

事故をおこしたのは誰か。

例えば政府、諮問委員会、企業の責任者を上から100人集めて、「責任者」とすることもできるのでは。しかし、実行しない。

2)縦割りを利用する

(毎日新聞掲載の1:縦割り組織を利用する)

担当は県だ、国だとたらいまわしにする。
国の担当であっても、それは原子力安全委員会だ、保安院だとたらいまわしに。

毎日の記事で該当するのはこの部分かと。
原発事故が誰の責任だったのかも明確にしない。避難指示の基準とする『年間20ミリシーベルト』だって誰が決めたかすらはっきりさせない。『それは文部科学省』『いや、原子力安全委だ』と縦割り行政の仕組みを利用し、責任逃れを繰り返す。


3)混乱させる
(毎日新聞掲載の2:被害者や世論を混乱させ、「賛否両論」に持ち込む)

原因物質がわからない。いろいろな(原因)説がある「複雑な問題なんだ」と主張。
放射能汚染の影響はどの程度か。深刻だという人、心配ないという人が入り混じり、「結局わからないんだよね」という状態になる。意見の相違があるという方向にもっていき、目の前の防御しなくてはならないことに目を向けない。

毎日の記事で該当すると思われる箇所。
被ばく量には『しきい値(安全値)』がないとされているのに『年間100ミリシーベルトでも大丈夫』などと曖昧な情報を意図的に流し、被害者を混乱させる。


週刊金曜日の記事で該当すると思われる箇所。
加害企業のチッソが原因は自社の工場廃液と知りながら、御用学者を使って真実をうやむやにしようとしました。(略)東京工業大学の清浦雷作教授などは当初、「戦時中水俣湾に落とされた爆弾から毒がでて、それが水俣病の原因だとか、漁民が弱った魚、腐った魚を食べたから」という「爆薬説やアミン説」を流布。(略)ところがその後、裁判の証言に立った清浦教授は、「水俣湾に実際爆弾が存在していたか否かは確認していなかった」と認めたのです。根拠などなくても、原因をめぐって混乱を起こせばよかったのです。


4)被害者を割る
(毎日新聞掲載の3:被害者同士を対立させる)

意見の相違を利用して、同じ家庭のなかで、放射能が危ないと思う人と、大丈夫だと考える人にわかれる状況をつくる。これは意図的につくられた状態だと考える。

その例として、アイリーンさん、以下の例を紹介。

事故直後、山下俊一氏が、福島県各地を精力的に講演して回ったことにより、「被曝は心配しないくていい」という意見にお墨付きがつき、一定の人に支持されるようになった。そこに、被曝の危険を訴える人が現れると、山下氏の意見を信じている人と、対立関係になってしまう。これが家庭内で起きている。

毎日の記事で該当すると思われる箇所
「事故直後、家族を避難させるため、一時的に職場を休んだ福島県の学校の先生は、同僚から『ひきょう者』『逃げるのか』と非難され、机を蹴られたそうです。みんな不安なんです。だから『一緒に頑張ろう』と思うあまり、福島を離れる相手が許せなくなる」

「逃げるのか逃げないのか。逃げられるのか逃げられないのか。街に、職場に、家族の中にすら、対立が生まれています。でも、考えて。そもそも被害者を分断したのは国と東電なのです。被害者の対立で得をするのは誰?」


5)データをとらない。証拠を残さない
(毎日新聞掲載の4:データを取らない/証拠を残さない)

週刊金曜日の記事で該当すると思われる箇所。
(水俣病について)
行政はこの56年間、今まで一度もきちんとした疫学調査を実施していません。


政府も件も、海外の専門家がこうした調査方法(※)を検証・批評できる情報を、意図的に発信していません。県の健康管理調査のホームページには、英文のセクションもないのです。

※福島県が県民に実施した「健康管理調査」などのこと。アイリーンさんは、この調査方法について、放射能の影響はないという「シロ」の結論を出す仕組みと指摘しています。

「調査をしない。データを残さない」というやリ方は、明らかに加害企業の責任追及をやりにくくする狙いがあるを思わざるをえません。




6)すりかえる
被害者、市民が何かひとつ獲得すると、獲得したものを悪用する。

2011年5月23日、20ミリシーベルトまでの被曝を限度とするやり方に反対する福島の親たちが、文部科学省の外で交渉した結果、1ミリシーベルトを目指すと文部科学省は方針転換。海外メディアも含め、大きく報道された。
しかし実際には、1ミリシーベルトが適応されるのは学校にいる間だけで、通学路は含まれないし、内部被曝は対象外。つまり、「1ミリシーベルト」というアドバルーンをあげて、実際の内容はそうではないということ。

参考サイト:文科省「1ミリシーベルトをめざす」けれど、給食などによる内部被ばくは含めない グリーンピースのサイト



7)時間かせぎ
(毎日新聞掲載の5:ひたすら時間稼ぎをする)

水俣病は政府の公式確認から半世紀以上がたつが、未だに解決していない。
問題解決を引き伸ばすことができれば、被害者は亡くなっていくため、それで解決してしまう。

8)お金がないという
別のところにお金は使っている。

9)国際会議を開く
(毎日新聞掲載の10:御用学者を呼び、国際会議を開く)

御用学者を集めて会議を開催する。
意味のない調査をする。(これは、毎日新聞に掲載の6:被害を過小評価するような調査をする、のことかもしれません)
精神的ストレスによる影響について調査を始め、「結局、みなさん、勝手に病気になったんでしょ」といえる土台をつくる。

10)あきらめさせる
(毎日新聞掲載の7:被害者を疲弊させ、あきらめさせる)

「その問題は、もう聞きたくない」「くたびれた」と感じさせる状況をつくる。
問題に関与することをやめれば、日常生活は楽になりそうだから、もう追求しない、と思わせる。

アイリーン.JPG

共通する10の手口に気づいたきっかけについてアイリーンさんは、
「国や県のやり方が、水俣病の歴史と重なる部分が多いことに気づいた。まるで、どこかに(10の手口をまとめた)シナリオ本があって、その通りにやっていると思えるような気さえする。水俣の負の遺産を、原発事故にあてはめていると感じた」とのことでした。


東京電力の補償について、水俣病補償との類似性についての記述があります↓
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2012年02月27日

溝口訴訟 遺族の水俣病認定を命じる勝訴

数日前に書いた「溝口訴訟」の判決が福岡高裁でありました。
遺族の水俣病認定を命じる勝訴でした。

以下、現時点でアクセス可能な記事リンクです。

(TBSテレビ 27日18:10)水俣病認定訴訟、遺族が逆転勝訴
【動画】



http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4963264.html?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter (リンク先の画像は削除されています)

熊本県を相手取り、亡くなった母親の水俣病認定を求めていた裁判の控訴審です。福岡高裁は27日、1審判決を覆し、原告逆転勝訴の判決を言い渡しました。

 Q.判決の瞬間は
 「何とも言えませんね。呼吸できないくらい」(原告 溝口秋生さん)

 この裁判は、水俣病の認定申請をしたものの、21年後に棄却された母親のチエさんについて、息子の溝口秋生さんが熊本県を相手取り、棄却処分の取り消しと水俣病の認定を求めている裁判の控訴審です。

 27日の判決で福岡高裁の西謙二裁判長は、県の棄却処分は取り消すとし、熊本県に水俣病認定を義務づける、原告の逆転勝訴の判決を言い渡しました。

 「未検診死亡者が非常に特殊な立場に置かれているし、認定は、疫学的に、ばく露についても総合的に見なければいけない」(山口紀洋弁護士)

 チエさんは、認定申請をする前に医師から感覚障害の疑いがあると診断されていましたが、ほかに水俣病と判断できる資料がないとして棄却されていました。

 今回の控訴審では、チエさんには感覚障害があり、それがほかの病気によるものではないことや、当時の生活環境などから、「水俣病と認定することができる」と判断したものです。





(NHK 27日 18時15分) 高裁で国の水俣病基準を否定
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120227/k10013321951000.html
水俣病の認定を巡る裁判で、福岡高等裁判所は「現在の国の判断基準だけで認定するのは不十分だ」と指摘し、申請後に亡くなった女性について、熊本県に水俣病の認定を命じる判決を出しました。
高等裁判所が国の認定基準を否定する判断を示したことで、未認定患者の救済の流れに影響を与えることも予想されます。

この裁判は、昭和49年に水俣病の認定を申請し、3年後に死亡した熊本県水俣市の女性を巡って争われたもので、1審の熊本地方裁判所は、平成7年に申請を退けた県の判断を「妥当だ」とする判決を出していました。
27日の2審の判決で、福岡高等裁判所の西謙二裁判長は「現在の国の判断基準だけで水俣病かどうかを認定するのは不十分だ」と指摘しました。
そのうえで、女性の手足に感覚障害があったことなどに加え、当時の生活状況なども検討して、「水俣病と認められる」と結論づけ、県に患者としての認定を命じる逆転判決を言い渡しました。
水俣病の認定を巡っては、おととし、大阪地方裁判所も国の認定基準を否定する判決を出しています。
今回、高等裁判所が同様の判断を示したことで、認定を求める人が今後増え、未認定患者の救済の流れに影響を与えることも予想されます。
未認定患者の救済策に影響も

昭和52年に国が示した水俣病の判断基準では、「感覚障害」や、視野が狭くなる「視野狭さく」など、複数の症状があることが水俣病の認定に必要だとしています。
この基準に適合せず水俣病と認められない人たちは各地で裁判を起こしていますが、このうち平成16年の関西訴訟の最高裁判決は、一定の要件を満たせば感覚障害があるだけで水俣病と認める判断を示しています。
また、おととし7月の大阪地方裁判所の判決でも「医学的な正当性を裏付ける的確な証拠はなく、基準を満たさない場合でも総合的に考慮して水俣病と認められる」と、国の認定基準を明確に否定しています。
今の基準だけで水俣病かどうかを判断するのは不十分だとした今回の判決を受けて、認定を求める人が増えることも予想され、7月末で申請が締め切られる、未認定患者の救済策に影響を与えることも予想されます。
原告側“有益な判決”

原告の弁護士は「国の認定基準を否定した全面勝訴だ。生活歴や病状などを総合して水俣病の患者を認定し、行政に対応のやり直しを求める有益な判決で、上告しないよう求めたい」と話しました。
熊本県“国と協議したい”

熊本県の蒲島郁夫知事は「判決については重く受け止めている。判決の内容を聞いたばかりなので、今後は国と協議していきたい」と述べました。
環境省“相談あれば熊本県と協議”

今回の判決について、環境省特殊疾病対策室は「判決の内容をまだ確認していないので、コメントは差し控えたい」としたうえで、「被告が熊本県であり、県から相談があれば一緒に協議していきたい」としています。




(西日本27日 14:19)水俣病認定を命令 遺族側が逆転勝訴
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/289111

(共同配信 西日本27日 14:16 )水俣病21年放置に遺族逆転勝訴 福岡高裁、認定義務づけ
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/289107

(共同 14:03) 水俣病21年放置に遺族逆転勝訴 福岡高裁、認定義務づけ
http://www.47news.jp/CN/201202/CN2012022701001551.html

(朝日 27日13時44分)水俣病訴訟、遺族が逆転勝訴 認定命じる高裁判決は初
http://t.asahi.com/5psf

(熊日)福岡高裁が水俣病認定を命令
http://kumanichi.com/jyuyo_sokuho/2012/0227/20120227001.shtml

(速報扱いのためか記事すでに上記URLにありませんが、以下の内容)

死亡した母親の水俣病認定申請を熊本県が棄却したのは違法として、遺族が県に処分取り消しなどを求めた訴訟の控訴審判決で、福岡高裁は請求を退けた一審熊本地裁判決を取り消し、水俣病と認定するよう命じた。原告逆転勝訴。


(毎日 27日 13時34分)水俣病溝口訴訟:原告側が逆転勝訴 福岡高裁判決
http://mainichi.jp/select/science/news/20120227k0000e040183000c.html

(読売 27日13時52分)水俣病認定申請、2審は県の棄却処分取り消し
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120227-OYT1T00624.htm?from=tw

(時事 27日(月)13時24分配信)二審は水俣病認定命じる=県の処分も取り消し―福岡高裁
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120227-00000068-jij-soci

判決を待つ心境を語る原告の溝口秋生さん
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2012年02月25日

27日 水俣病 溝口訴訟の判決に注目を

今度の月曜日、2012年2月27日に、福岡高裁で、水俣病事件に関する裁判の判決がでる。

訴えたのは、溝口秋生さん。現在80歳。
秋生さんの母・チエさんの水俣病申請を、熊本県が21年間放置していたことの違法性と、
熊本県が、チエさんを水俣病患者だと認めさせることを問う裁判である。

●時間軸でみると

1974年、溝口チエさんは、水俣病と認めてもらう申請を熊本県にした。
1977年、チエさん死亡 3年間の間に行われた認定に必要な検診は、耳鼻科と眼科のみ。

  県が結果を出すまで毎年、秋生さんは、チエさんの命日の前後には、
  審査の状況を県に問い合わせ続けた。県は「検討中」と毎回答えた。

(申請から21年後)
1995年、熊本県がチエさんを認定棄却(水俣病だと認めない)

2001年、秋生さん、熊本地裁に提訴
2004年、熊本県と環境庁の合意文書(未検診死亡者の病院調査を積極的に実施しない)発覚

2008年、熊本地裁判決 チエさんは水俣病ではない/調査の遅れは不明
    原告の訴えを棄却

2008年、秋生さん、福岡高裁に提訴
2008年、原田正純医師による証言
   「水俣病は環境汚染による食中毒。溝口家族、地域全体が汚染させている」

(↓今度の月曜日)
2012年2月27日 福岡高裁判決!




溝口訴訟の争点


チエさんの病院調査を怠り、申請から21年間処分を放置していたのは違法である。


溝口チエさんは熊本県に水俣病の認定申請をしてから、眼科と耳鼻科の検査を受けた。
しかし、全ての検査が終わる前に、チエさんは亡くなった。申請から3年後のことだった。

申請中に申請者が死亡した場合、生前に通っていた医療機関の資料などで認定を判断することになっている。これは、熊本県ほか行政が認定基準の根拠としている「1977年(昭和52年)判断条件」にも明記されていることである。

しかし、熊本県はチエさんの資料を探すことなく死後17年間放置。

申請から21年後、熊本県はチエさんの認定申請を、"資料がない"との理由で棄却した。


あえて、カルテを収集しない!?

88年(チエさんの申請から14年目)に、旧環境庁と熊本県が合議した書類に、驚くべき事実が書かれていることがわかった。

チエさんのような未検診の死亡者については、積極的に病院調査をしない、という方針が書かれていた。

病院調査(患者に関するカルテの収集など)をして、患者に有利な資料が集まれば、水俣病と認定される患者が増えてしまう。病院調査を行えば、棄却した患者の8割を認定することになりかねないという試算もあったという。

:::

本来なら、未検診の死亡者の病院調査は迅速に行うべきであった。
が、意図的に放置した結果、チエさんのように、被害者は切り捨てられた。
(単に切り捨てられただけでなく、20年以上待たされたあげくに、である)

もし、溝口さんの主張が裁判で認められなければ、申請者を長期にわたり放置するやり方がよしとされてしまうという危惧も。


チエさんの生前の病状は水俣病である

・チエさんのメチル水銀による暴露歴(患者多発地域での生活歴)
・チエさんに感覚障害があるという医者の診断書の存在

から判断すれば、チエさんは水俣病である。

しかし、熊本県側は、チエさんの感覚障害を認めた医者の診断書を認めていない。
この立場から、"資料がないから"チエさんは認定できないと主張している。

原田医師の証言については
http://homepage3.nifty.com/mizogutisaiban/news/tienowa022.htm

これに反論する熊本県側とのやりとり
http://homepage3.nifty.com/mizogutisaiban/news/tienowa023.htm

といったやりとりを経て、2月27日の判決を待つというわけです。


原告の溝口秋生さんが、高裁判決に向けた気持ちを語っています。



関連する新聞記事


水俣病は終わっていない 放置された被害 溝口訴訟が問うもの
救済されなかった「未検診死亡者」の実態を浮き彫りにした「水俣病溝口訴訟」は27日、控訴審判決を迎える(熊日2/23)
「母は、救済されることなく亡くなった人たちの代表」(溝口さん)



「行政側は職務の一部だから、長期戦になっても消耗しない。
お金も時間も限りのある個人は、ともすれば命がけの闘いになる。
水俣病をめぐる裁判を見ていて、そう思う。」2011/11/05 (朝日)記者メール


●判決日  2012年2月27日(月) 13:10〜 福岡高裁にて●

詳細
溝口さん(水俣病認定)棄却取消・義務付け行政訴訟のホームページ
http://homepage3.nifty.com/mizogutisaiban/index.htm
27日は、12時30分から福岡高裁 門前で事前集会があるそうです。

溝口チエさん水俣病認定・行政訴訟(アイリーン・アーカイブより)
http://aileenarchive.or.jp/minamata_jp/testimonials/mizokuchi.html

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2012年02月04日

熊本日日新聞2月4日のトップ記事→水俣病救済申請7月末期限

熊本日日新聞2月4日のトップ記事です。

20120204熊日1.JPG

20120204熊日2.JPG

20120204熊日3.JPG

20120204熊日社説.JPG


同じ日の沖縄タイムスの一面トップはこの記事でした。(リンク先画像あり)
【NEWS】アメリカ「辺野古断念」へ


東京新聞の一面トップ記事は、沖縄局長更迭先送り
20120204東京.JPG

水俣病の記事は3面に掲載でした。
20120204東京2.JPG

地方紙の読み比べ、面白いですね。


今日購入した書籍。
原発事故の被害と補償.JPG 

これも。
アマゾンのリンクがバグっている時があるので、書名書いておきます。
『水俣の教訓を福島へ2』


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2011年11月13日

緒方正人さんの講演メモ@「水俣病から福島原発事故を考える」水俣・白河展講演会

※UAT中継拝聴しながらのメモです。


講演会のタイトル「水俣病から福島原発事故を考える」について。
「事故」という表現。
水俣病については、「病」の悲惨さに焦点あてられて伝えられてきた。
ところが、チッソ水俣工場からでた産業廃液の垂れ流したことが、プランクトンや魚をとおして、人間、猫、鳥に汚染がいたるという、産業廃棄物の不法投棄事件みたいなもの。

ところが、水俣病というと「病」からはじまってしまう。そこに至る過程があっただろう。
その責任の内容として、「事件」という捉え方をしてきた。
「水俣病問題」という捉え方もあるが、私は「事件」にこだわっている。

福島原発のニュース 早くも「事故」という表現に違和感。
事故って、不可抗力のような響きをもっている。
ですから事件だと、と抵抗するわけ。

水俣病は1956年が公式確認だが、海の異変は敗戦濃厚なころから始まっている。
鳥が空から落ち、カキが口あけて死んでいたり。
水銀だけみると、チッソは昭和7年から使いはじめ、終戦によって生産が増大し、使い、捨てられる廃液も多くなっていく。被害が不知火海に拡大していく。

福島原発の水素爆発で建屋が吹っ飛び、も危ないとチッソを注入。
ここで「チッソ」がでてきたかと。
前は知らなかったが、25,6年前、チッソ工場を家族で見学した祭、チッソの人が、私を爆弾扱いして、恐る恐る案内してくれた。
「緒方さん、地球はうまくできているんですね」といいだす。
地球の(大気の?)の成分の74,5%はチッソで、チッソがこれだけあるから、美しい景色を保っていると。

チッソが7割以上なければ、爆発する理論があるそうで、(この話を聞いていたので)原発にチッソ注入ときいて、ピンときた。化学を知らない私でも、チッソから教育うけていたんで、すぐわかかった。

考えてみたら、共通するところがあった。

汚染された放射能汚染物質が海に大量に流されていった。
食物連鎖で広がっている。

水俣病事件で気になっているのは、人間のことはニュースにするが、(自分は)魚の代理人として発言するが、他の生き物への気遣い、許しを請うというか、そういう態度がまったくなかったのではないか。
魚は裁判所に訴える、本社に訴えることがないからか、何の侘びもなかった。
今でもそうだ。

人間社会でしか通用しない金で補償金、慰謝料、ごまかしてきた。
私は金のシステム社会のなかで、他の生き物に通じない価値観。
貨幣価値は、他の生物にまったく通用しない。

であれば「侘びをいれる」ということを考えたとき、金ではない何なのか。
これが、水俣病事件からつきつけられてきた、大きな事柄ではないか。

現代社会のさまざまなな事件、福島原発の表面にでてきてるが、チッソもそうだった。
補償金払うと、手切れ金のように、口止め料のように。
「あれっきり、これっきり、それっきりですか」という山口百恵の歌のようになる。
それで私は(金の)要求行動を捨てた。

初心は親父のあだ討ちだった。怨念といってもいいくらい、強い恨みもっている。
父、目の前で狂い死に。そのショックが私を現在までかきたててきた。
チッソとは何か考えていたら、本の題名でもあるが、「チッソは私だった」。
私ももう一人のチッソだったと。

私自身が、工場で働いていた一人だったらどうしただろう。
ひょっとしたら、同じことをしていたんじゃないか、という身震いをきいた。
ところが、患者、被害者、漁民からだと責任を問う側。問われることはない。
ところがよく考えてみたら、人として問われていた。

原発周辺の人にとっては、東電って何やったのか、国は何をしたのか。
自分たちは、税金を納め、真面目に、コンプライアンスで生きてきたのに、国か
ら捨てられたような気持ちにならざるを得ない。

えばりちらかして、原発村に学者みたいな人たちが、嘘並べて信用できん。
公的行政機関もそう、大本営発表もそう。
正直いって私は、国会は化け物のように、正体つかみにくいと思っている。

チッソは私であった。もし私がチッソで働く一人だったら、という問い。
よく考えてみれば、株式会社。
チッソは今年、名前変えて「JNC」に。
偽装倒産だといったら、チッソの部長にブツブツいわれた。

「会社」をさかさまにすると「社会」。
そのような価値構造のなかにいる。
ある意味ではとらわれ身、中毒患者である。
電気とめられたら困るもんね。

中毒社会なんですね。

そこで、どう目覚めていくか、問われている。
その意味では、原発の事件は現代社会を象徴する、もっとも危ないものの一つ。

さまざまな危険性があるなかで、現代文明を象徴する悪しきもの、必要悪として存在してきたものとして、原発をとらえている。

私もそうですが、電気コンセントがいっぱいあって、電化製品にかこ
まれて、暮らしているわけで。
どこかで矛盾を感じざるを得ない。


私は他の生き物からすれば、悪か生き物だと思う。
逃げてばっかりおって。

便利で豊かな社会というものに、私たちは、いろんなコマーシャリズムにのせら
れて、誘われてきたのではないか。

ちょっと思い出してみればわかる。
車、最初のテレビ、冷蔵庫。
現金なくても、月賦で買えるんですよって。
この罪深さ。

何ものにも変えがたく、先祖代々守り抜かれてきたものに…

寝床に毒をまいたようなもんだと思った。
おろかなことをやったのだと思った。

そういう意味で、 苦しんでいる草木生物、田んぼ、ふくめて命が今叫ん
でいる。人間に目覚めてほしいといっているのではないか。

水俣が国の直轄支配になっていたんだとおもった。
自主性が見られなかった。なぜならば、自治の最大の根幹、生命財産を守る。こ
れより優先するものがない。

原発各地につくられていくなかで、地域の関係が変わっていく。

九州の電力会社、県知事、地元の町長までのかって、悪さをやってきたみたいで
すが、事実上の、経済産業省をとおしてでしょうが、東京が事実上、直轄支配す
るような影響力をもってしまう。

企業のおごり。そういうことを感じた。

この話しを市長さんたちにしたことがあるが、主体的な自治、市長や副市長だけ
でなく、土地の人がどうしていくかという方向性、これ以上、国に左右されなく
てもいいなじゃいかなと思う。

水俣は半世紀をこえて、改めて、仕切りなおしが必要になってきている。

チッソ株式会社という名前が消え、国鉄も債務処理をしたら、消えてなくなる。
(チッソが社名を変え、ほとんどの資産を譲渡して新しく作った会社)JNC、卑怯だと思います。反対の署名集めました。

国会で法案が可決(して、チッソはJNCをつくった)。
そういう意味では、水俣病を終わらせたいという表れ。

そういう意味では、政治レベルの水俣病よりも、もっと大事な、生命の記憶として、水俣病事件を記憶していくこと。そのためには記録していくことが大事。

私自身は、内在していることをみとめているので(チッソは私だったのこと)、たたかう相手に困らないが、そういう意味では、大きな転換期を迎えているんじゃないかと思う。

福島との共通点感じた。
生命世界が脅かされている。
その罪深さが共通。

水俣病事件に限らず、公害病という別枠ではなく、環境汚染は世界中で問題。
この罪深さに対して、人間の進化がとわれている。


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森達也さん講演メモ@「水俣病から福島原発事故を考える」水俣・白河展講演会

森達也さん講演内容をメモ。
(USTを見ながらのメモ。音声の関係で聞き取れない箇所もありましたので、正確でない箇所もあるかと思います)

UST中継:http://www.ustream.tv/channel/iwj-fukushima3


イラク戦争。
大きく支持したのはメディア。
日本、小泉政権。戦争は当然であるという論調。
(このことを?)日本メディア、なかなか反省しない。

どの情報を信じたらいいのか、よく聞かれる質問。
どの情報を信じたらいいのか、という前提が間違いと答える。
どこかに信じる情報があるという前提で、その質問はでてきている。

大本営発表との共通点

(原発事故取材?)今回(メディアは?)はいくべきだった。
メディアもカメラをかついいで入るべきだったと思う。
組織ジャーナリストでない人が取材をしているケースもあるが。

そもそもメディアとは何か。
メディアリテラシー よくいわれる言葉。
メディアを批判的に、主体的に受け取る、解釈するということ。

20世紀前半、映像と音声 世界に広まった。なぜか?
人々が求めた(?)
活字は教育が必要だから。

戦争のA級戦犯は ラジオとテレビ
大量破壊兵器並

より広範なプロパガンダが可能、危険な時代に
であるからこそ、リテラシーの時代。

魚の群れは、全体で同じ方向を向き、角度を変える。
同調圧力。違う動きをしない。こういう気持ちが強くなる。
水俣であり、911、福島であったり。

誇り・・・といった言葉を使いたがる。
集団で人が動くとき、どうなるのか。
よりまとまりたくなる。
まとまるためには、異物を見つける。
異物をみつければ、自分は多数派になる。
異物を攻撃すれば、連帯感アップ、多数派になれる。

20世紀、ほとんどが自衛戦争。愛するものを守るための戦争。
他国からこれを奪ってやろうという戦いはない。
アメリカの戦争もある意味、そう。
いちおう、民主主義、人種主義を守るためとブッシュ。

メディアは利益を求める。NHKは例外ですが、子会社(株式会社)たくさんあ
るが。視聴率アップすれば、給料あがる。

人が集団化したとき、激しい声で反応する。
あぶない、きけんだと。
そこにチャンネルをあわせる。
メディアはそちらに流れ、あおってしまう。大きな間違いを。

原発大国
アメリカ・・・広大な土地
フランス・・・地震ない
日本・・・なぜこんな国にに


原発安全神話
神話は信じるものではない

羊の群れのなかには必ずヤギがいる。なぜか聞いた。
「羊は頭がわるいから家族が死んでしまう」
「ヤギはずるい。だから家族が助かる」
つまりこういうことだ。
羊は協調性がよく、足元の草を食べつくしてしまう。草なくなり家族は死ぬ。
ヤギは動き回り群れを気にしない。ヤギがいると、羊はヤギについていくので、各地を回る。
羊はヤギと一緒に放牧するのがルール。

たぶん日本人は、羊度が高い。ヤギが嫌いなんです。
日本はヤギを排除する世界。
ただ、ヤギによる。気づいたら、断崖絶壁にいることもある。
一番いいのは、羊だけどヤギ度をあげること。
そうした意識をもてば、この国は変わる。

原発事故では2万3千人ちかい人が今回なくなった。
現地で何を撮影したらいいのかわからな
かった。
撮影、マイクを向けることが後ろめたい。

31万人、ハイチ
9万 中国
20何人 スマトラ  死亡。
結局、他人事だったと気づく。世界で飢餓、戦争で苦しむ人がいる。
自分がもつ後ろめたさと、そうした苦しむ人がいるということ。
集団で動きながら、違和感を口にすること。それでたぶん国は変わる。

水俣。55〜56年。今だに片付いていない。ありえないでしょ。
変わらなくてはならないのは意識。
メディアは僕たちを反映している。
僕らが変われば、メディアは変わる。

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2011年11月11日

宇井純さんの命日に「宇井純を学ぶ」を振り返る

11月11日は、宇井純さん(1932年6月25日 - 2006年11月11日)の命日です。

2007年6月23日に東京大学・安田講堂で行われた公開自主講座「宇井純を学ぶ」について、当時取材した記事を以下に転載します。(長文です)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

宇井純を学ぶ.JPG


 昨年11月に亡くなった宇井純さんを偲ぶ会が6月23日午後、東京大学の安田講堂で開かれ約900人が参加した。「宇井純を学ぶ」をテーマに、水俣病や公害研究について宇井さんから受けた影響などを研究者が語った。

講演「宇井さんの言葉と仕事は、何だったのか」

 熊本学園大学の原田正純教授は、水俣病の解決は、医学だけでなく総合的な科学として捉えることが重要だと、当初から指摘していた宇井さんについて述べた。

「医学者は病気について知っていても、工場内のことや社会の動きについては知識が乏しい。こうしたことを宇井さんは教えてくれた」

 水俣病を総合的な視点から取り上げた富田八郎(宇井さんのペンネーム)による「月刊合化」への連載記事は、勝訴した水俣病裁判の資料になったと話した。
 
 早稲田大学の淡路剛久教授は宇井さんについて、水俣病の究明課程において研究者が、公害研究という名目で、特殊利益に奉仕することに怒りを持って告発していたと語った。また、1970年、政府の水俣病対策に抗議し、当時の厚生省前で座り込みをしていた宇井さんは、患者に不利なあっせん案が出されると厚生省の建物の中に入り逮捕された。同じく座り込みをしていた淡路氏は、「研究者としてだけでなく、一人の人間として行動せざるを得ない宇井さんの決意を見た」と当時を振り返った。自主講座「公害原論」が開講される5ヶ月前のことだった。

 宇井さんとの共通点は、少数派として“対抗的な研究”を行ってきたことだと述べた九州大学の吉岡斉教授は、2005年にまとめられた原子力政策大綱に反対する2名の原子力委員会委員として(賛成30名)、海外の有識者の意見をまとめたレポートを委員会に提出。再検討するよう求めたが却下された経験を持つ。膨大な作業だったが、宇井さんの存在に励まされたという。「約30年前に宇井さんは、日本の公害を告発する英文報告書を作成し、日本の公害を世界に知らせようとした」とし、政策に影響を与えようとした行動には勇気をもらったと述べた。

「徹底的に現場での判断を重視し、権威ある人の発言に媚びない、屈しない、反権威主義をつらぬく人」と話したのは桜井国俊沖縄大学学長。日本の研究者の多くが、欧州の排水処理方法(生活・産業排水の合併処理)をそのまま日本に適応しようと考える中、これから排水路を建設する日本の現状を踏まえ宇井さんは、「混ぜるべきでないものは混ぜなければいい」と喝破したという。その姿に、目からうろこが落ちる経験だったと述べた。

 北海道大学の宮内泰介准教授は、宇井さんの主張する「住民がつくりだす科学」について言及。過去の公害において、「住民運動や市民自治の中から科学が作られていった」とし、「宇井さんの提唱する現場重視、住民主体の科学を参考軸としながら、いかに自分たちの学問研究を作り直せるのか考えていきたい」と語った。

 「公害に第三者はいない」という宇井さんのテーゼを取り上げた和光大学の最首悟名誉教授は、公害の拡張型として放射能や化学物質汚染を挙げ、加害者であるか被害者であるか問う以外に、被害者であり、かつ加害者になりうる社会であると指摘。ここから脱却するには、日々の暮らしの中で生き物を「慈しむ」ことから始まると、社会の進むべき方向を示した。

※ 東京大学の宇沢弘文名誉教授は、体調不良のため欠席した。

宇井純を学ぶ2.JPG



宇井さんの言葉と仕事を、今後の研究と教育にどう活かすか

 京都大学大学院生の友澤悠季さんは、宇井さんの貫かれた「現場主義」に、「歴史の欠如」という視点を重ねることで、日常的に目にしている場所が、実は「現場」であることを指摘した。昨年、水俣フォーラムが主催した叢想行列では、「東京に水俣の記憶を訪ねる」をテーマに、70年代に水俣病対策に抗議して座り込みが行われた場所や、旧チッソ本社前を歩いた。参加した友澤さんは、「見えたのは普通のビルや、アスファルトの道。ここでかつて何が行われたのか教えてもらわない限り、通りすぎてしまうだろう」と述べ、“ネガティブな歴史”は忘れられる傾向にあると警告。その一つに、公害があると訴えた。

 一橋大学講師の山下英俊さんは、東大2年生のときに講演会で、宇井さんから70年に始まった自主講座について聞いた。自主講座の事務局が大学にあったことから、大学が運動の拠点になりえるということを学んだ。この教えはその後、キャンパスを舞台に環境問題に取り組む学生サークルの誕生へとつながった。

 学生が主催した講演会に宇井さんを講師として呼んだ。宇井さんは、「次は自分たちで教科書を作りなさい」とアドバイス。サークルの後輩らが、『エコブームを問う』という本を完成。「本は宇井先生との共同作業だと思っている」と語った。

 沖縄大学で宇井ゼミに参加し、直接指導を受けたことのある京都精華大学大学院生の三輪大介さんは、「宇井先生のスタンスが、あまりにもストレートで厳しく、ついていけるか不安だった」と当時を振り返った。また、討論会終了後の取材では、宇井さんの「被害者の側に立つ」や「第三者はいない」という言葉については、「自己の中に当事者としてのリアリティがなければ、ただ宇井純を権威化しているに過ぎず、何も学んでいないに等しい」とし、自分の問題意識と行動の中で捉えることで、初めて、言葉の真意を理解できるのではないか、と語った。

宇井純を学ぶ3.JPG



東大に環境学は可能か

 自主講座開講時の宇井さんの言葉に、「大学および、大学卒業生はほとんど常に公害の激化を助ける側にまわった。その典型が東京大学である」という厳しい言葉がある。「東大に環境学は可能か」をめぐり議論が行われた。

 現在、東大には、環境問題に携わる研究者が数多くいる。このことから、すでに答えは出ているのではないかとも考えられる。が、山下さんは、「重要なのは、ここで“環境学”が指しているものは何か、ということ」と指摘。「宇井先生がいう「公害に第三者はいない」がここで関係してくる。公害でいえば被害者の立場で科学ができるかということ。もうすこし広げて、市民のための科学というスタンスで、環境問題の解決に取り組んでいるかどうかが基準になる」と発言した。

 東大の鬼頭秀一教授は、例として、自然科学の研究者らが被害者の立場で研究をしたことが、被害者にとって役立つことがある一方で、研究者の介入によって、被害者の関心が、一定の学問領域に落としこめられることもあると指摘。回避する方法の一つが、現場に行き、問題を総合的に見えることだと述べた。ただし、いざ学問的な論文にまとめるとなると、再び、ある学問領域内で問題が捉えられてしまうことにも言及した。「現場から見えてくるもので物事を構成し、本質を見ること。これが、環境学ができるということ」と語り、学問の枠組みを乗り越える必要性を述べた。

 東大の井上真教授は、フィールドワークの現場で、「誰のための研究か」とつきつけられる学生の葛藤に触れ、「どんな立場にいても連帯できる。やることはある」という宇井さんの言葉に触れながら、「悩みについて、我々教員も議論していく。若い人が自分の進む道を見出していく場作りが重要。大学も捨てたもんじゃない」と話した。

 東大の小林和彦教授は、「環境問題の研究が、研究者の出世につながらないと研究は進んでいかない」と述べた。会場の参加者からは、「研究者が論文を書くということは、立身出世のためというよりも、一定の成果を認められることによって、社会的発言力が増す」という意見もあった。

公害論こそ環境問題解決の鍵

 大阪市立大学の宮本憲一名誉教授が閉会のあいさつを務めた。「公害問題と環境問題は違うという考え方では、環境の科学はできない」と述べ、多様な環境問題の本質は、現在の社会経済システムが進むかぎり、公害問題論から解けるとし、適応、発展させていくべきだと訴えた。

 日本国中がアスベスト問題に取り組むようになった2005年、調査のため尼崎を訪れたところ、大学院生や若い研究者が誰一人として調査に来ていないことに衝撃を受けたという。「60〜70年代だったら、研究者が殺到しただろう」と述べ、「コンピューターを眺めていて論文が書けると思っている環境論者の大きな間違い」と指摘。「若い人には、公害論をしっかり勉強してほしい」と呼びかけた。

文・写真:奥田みのり

<追記>同日、公開講座の後、場所を変えて、宇井純さんを偲ぶ会が行われました。
宇井純さんを偲ぶ集い.JPG

この日本酒は、確か、偲ぶ会で見かけたもの。
写真は、別の機会に撮影しています。
酒 宇井純さんを偲ぶ.JPG

311東日本大震災で、宇井純さんの日本酒をつくったメーカーが被災されたと聞きました。
岩手県陸前高田の日本酒メーカー「酔仙酒造」のようです。
少し調べてみると、酔仙酒造の専務をしていた方が、専務を辞職されてから、広田湾にもちあがった石油コンビナート建設反対運動に参加。
当時、東大では、宇井さんが公害などをテーマに自主講座を開講。
宇井さんの講義を聴講するため、元専務は岩手から上京していたようです。
(参考:http://www.fu-do.com/story/sss/yagisawa/sss.yagisawa.1.html

宇井さんは各地のこうした問題とつながっていたのですね。

東日本大震災:心込め、新酒仕込み 岩手・陸前高田の「酔仙酒造」
http://mainichi.jp/select/biz/news/20111014dde041040045000c.html

 東日本大震災で被災した岩手県陸前高田市の老舗酒造会社「酔仙酒造」が、同県一関市にある「岩手銘醸」の醸造施設を一部借りて操業を再開し、看板商品「雪っこ」の仕込み作業を進めている。被災後初めてとなる新酒の出荷は17日に予定している。

 仕込みは先月12日に始まった。「雪っこ」は、蒸した米と水を3回に分けて酒母の入った仕込みタンクに入れる三段仕込みで醸す。約3週間発酵させた後、搾って瓶に詰める。

 震災では従業員7人が犠牲になった。酒蔵をはじめ、事務所や倉庫などすべてが津波で流された。金野靖彦社長(65)は「多くの方に応援してもらってここまできました。心を込めてお酒を仕込んでいます」と話した。【写真・文 長谷川直亮】

毎日新聞 2011年10月14日 東京夕刊





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2011年11月04日

「環境省 特措法は節目 水俣病は解決しない」とか。

11月3日のwebdiceに書いたものを転載します。
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11月2日、水俣病被害者互助会と環境省、チッソに行ってきました。
熊本日日新聞と西日本新聞の記者の方がいらっしゃいましたが、今朝ネット検索した限りでは、昨日の行動についての記事が見当たりません。

そこで、同行した私なら、なんと記事の見出しをつけるか、考えてみました。

私なら、「環境省 特措法は節目 水俣病は解決しない」でしょうか。

“最終解決”を目指してつくったという特措法について、昨日確認した環境省の見解です。

チッソはこの見解に同意しないと思いますが。

水俣病は公式に確認(政府が確認)してから55年になりますが(55年ですよ!)、昨日の話によると、いまだに因果関係を明らかにする手法の開発をしているそうです。
この間、亡くなられた被害者が何人いることやら。

こうした状態にありながら、「水俣病の教訓云々・・・」という発言もあり、教訓って何?と考えました。

結局、「検討中」「開発中」云々の対応は、解決策の先延ばしでしかなく、被害者は亡くなっていくのです。
何年も待たせてから“対応”すれば、対象となる被害者の数も減りますから、補償する側にとっては、補償額が少なくなります。

これが教訓!?
とは思いたくないですが。

日本がインドに原子力技術とともに「原発事故の安全対策」も提供

というニュースが先日ありましたが、日本の安全対策って何でしょう。
暫定規制値を事故から半年以上続けること?
まさか、安全対策って、原発を推進する政府や電力会社にとっての安全対策!じゃないですよね。でもそう考えたほうが、納得できそうな今の日本政府・東電のふるまいじゃないですか。

なお、昨日の環境省、チッソでのやりとりの内容については、本日、水道橋で開催されるシンポジウムで報告があるかと思います。
http://d.hatena.ne.jp/chechen/20111028/1319795841

取り急ぎの報告でした。

投稿日:2011-11-03 10:08


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2011年10月30日

11/2 水俣から埼玉の市民の皆様に「今伝えたいこと」

11月2日、浦和で開催 「水俣から埼玉へ、そして福島へ いま私たちが伝えたいこと」

水俣から、水俣病患者さんが上京されます。

1102浦和 ほっとはうす.PNG

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2011年09月28日

9/23 火のまつり@水俣湾埋立地 #minamata

本文が表示されない場合は
http://togetter.com/li/191700
リンク先でお読みください。

リンク先と同じ内容が、↓ここに表示されるように設定していますが、
表示されないことがあるようです。

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2011年09月22日

「水俣学:最初の一歩」ネット中継で受講してみた

9月22日から、「水俣学」をテーマにした講義が熊本学園大で始まりました。
授業は午後1時〜2時半。インターネットで講義の様子が中継されるとのことです。

講師のリストは以下の通り(熊本学園大・水俣学研究センターのサイトより引用


1回 9月22日 「水俣学:最初の一歩」花田昌宣(熊本学園大教授)

2回 9月29日 「水俣病補償・救済と地域社会」丸山定巳(熊本学園大教授)

3回 10月6日 「胎児性水俣病」原田正純(水俣学研究センター顧問)

4回 10月13日 「水俣病を通してジャーナリズムを考える」牧口敏孝

5回 10月20日 「東日本大震災と福島原発事故」中地重晴(熊本学園大教授)

6回11月10日 調整中

7回11月17日 「雨にも負けず、風にも負けず〜これが私の生きる道(仮)」坂本美代子(チッソ水俣病関西訴訟勝訴原告/行政認定未補償協定患者)

8回 11月24日 「教育と水俣病(私にとっての水俣病)」広瀬武(水俣芦北退職教職員等協議会/小学校教師)

9回 12月1日 「私の水俣病(仮)」緒方正実(水俣市立水俣病資料館語り部)

10回 12月8日 「水俣病といのち」最首悟(和光大学名誉教授)

11回 12月15日 調整中

12回12月22日 「水俣(病)に学び、未来を想う(仮)」森枝敏郎(前熊本県健康福祉部長)(元熊本県水俣振興推進室長)

13回 1月5日 調整中

14回 1月19日 「公害被害/社会的困難を抱える地域の再構築とその評価について」宮北隆志(熊本学園大教授)


熊本学園大のサイトから、PDFでもダウンロードできます。
水俣学2011講師リスト.JPG

初回の本日の講義、途中からネットで聴講し、メモったことを共有させていただきます。


「水俣学:最初の一歩」花田昌宣(熊本学園大教授)
(前半数分のメモはなしです)
・水俣病、神経細胞は回復・再生しない。一度被害もたらされると、一生の付き合いに。
病気をおこしたチッソ、放置した国や県。

・来週の丸山先生の話で説明があるだろう被害救済制度。
対象は広い意味で5万人。今も裁判を続けている人もいる。

・公害事件は一般的に、人々は一方的に被害をうけた。
これが、交通事故と違う。交通事故は自分が加害者になることもある。

被害者の「私たちは危険だと知らずに魚を食べた」
被害の海は、50年前も同じようなきれいな海だった。
水にとけた水銀は目に見えなかった。

飛行機に乗る。墜落をする。飛行機に乗ることで、早く移動できる便利さがあり、なおかつリスクを伴う。
水俣病事件では、自分たちの暮らしが一方的におかされる(1)

・弱い立場への被害(2)
東京、大阪、NYでは起きていない。なぜ水俣で起きたのか。
これが東京湾への水銀流出だったら、たちまち対策がとられていたはず。
水俣の貧しい漁民への被害。被害は隠蔽。その積み重ねが50数年の水俣病の歴史。


=水俣学とは何か=
水俣病学でもなく、環境学でもない理由

1)水俣病事件という「負の遺産」
そのことを将来に活かす。
どんな失敗があったのか検証し、将来二度と繰り返さないように。
自分の人生に活かしていく。自分の持ち場で活かしていく。


=越境する水俣学=
4つの原則

1)現場に学び、現場に返す
寺山修二の「書を捨てよ、街にでよ」。

水俣に一日いて見えること。
そこでの出会い、現場におちている宝とであってくる。
いろんな人がいる。そのことにつきあってみる。

教室のなかで完結しない。

よそ者としての自分。
外からの目だけでない。現場に返すとは何か。

漁民、家族、チッソ、関係者とのコンフリクト。社会紛争のなかに向き合うことになる。
それを中立的立場で観察することをしない。
私たちのスタンスははっきりしている。弱い立場の側に立つ。
社会的にものがいえない人々。そこが出発点に。
自分たちが学んだこと、調べたことを、その人たちに返す。

2)学問の壁を越える
水俣病を自分の専門分野から見ているだけでは不十分。
被害をうけた人の命と暮らしに寄り添えば、学問の壁を越えていかなければいけないことは必然。

学際、複合領域として、他大学でも取組みはある。

3)専門家と素人の壁を越える

平たい言い方になるが、一番ものごとをわかっているのは現場の人。
水俣病の被害をこうむった患者さんたち本人。
そのことに学んでいく。それが、専門家と素人の壁を越えること。

それぞれのプロとしての壁を変えていく。
講師にお呼びしている患者のお二人は大学出ているわけではないが、学ぶことがある。

4)国境を越える

国家を超えようということ。
水俣でおきていることを世界に発信。その逆も考えていく。
経験をプラスに活かしていく。
カナダの先住民族の水俣病患者
タイの工業地帯での被害民・・・
顔を見る関係で発信していこうと。



・水俣学講義の10年の歩み。2002年から開始。
原田先生の提唱に若手研究者が賛同して始まる。
若い次の次の世代にまで伝えていきたい。

そのときの原則(原則1?)は、今携わっている方から学ぶこと。
患者さんに水俣病のことを語ってほしいとお願いしている。
残酷なことをお願いしているかもしれない。
本来、人に語らない内面を語ってほしいと。
幸いなことに、喜んで語ってくれた。そうした声を学生に伝えたい。

映画監督、ジャーナリスト、写真家、労組委員長
その道のプロであり、水俣病に関わってきた人たちにも語ってもらう。

他の大学でも環境に関する授業を行い、水俣の話もするだろう。
だが、現地にも行ったことなく、患者とも会ったことがない先生が話すことも。
私たちは現地から (原則2)

原則3)今の水俣病を伝える
21世紀を語ってもらう。
過去〜現在への語り。
水俣病の罪のありかを語ることでもある。




そのほか:教室にいる180人の学生だけでなく、ライブ中継で見ている人もいる。
昨年、イギリス、カナダで見ている人もいた。

講義は「水俣病講義」として本にしている。
さらに多くの人と共有されていく。

2002年、講義始まったころのこと。
水俣病は終わったと思われていた。
1995年の政治解決で、1万人の救済策。そのころ、100年残るような授業をしていこうと始めた。

講義以外では、水俣での患者検診、聞き取りのほか、四大公害事件がおきた地域での「紛争」終了後、解決後の公害の現場の調査をし、水俣に生かそうと考えた。

水俣が解決したとは思っていないが、ほぼ解決したという認識だった。
よその地域にまなび、水俣に重ねようと思っていたが、そうはいかなかった。

2004年の秋、水俣病の歴史をひっくりかえすような最高裁の判決。
国、県に水俣病の責任があるという判決。
さらに、これまで水俣病でないと否定されてきた関西の原告たちが、水俣病と認められた。
水俣病事件史48年、大きく転換。

自分の家族が認定患者、それを隠してきた人もいる。
胎児性水俣病の人のお母さんが、患者認定の手続きをとっていなかったことも。
結婚するまでは申請しないという人・・・
そういうひとたちが、あらたに申請。1万人をこえた。

新たな裁判、新患者団体も誕生。
政府、熊本県は、「その場しのぎ」といえるような小手先の対策をしてきたこれまでの5年間。

一つ一つを水俣学講義のなかで当事者に伝えていただく。

講義で(明かされる)課題はみなさんの課題
将来に生かしてほしい。

水俣病事件のひとつひとつに学び、現在を見る。
それを一人一人が生かしていく。
一人が変わるだけでなく、将来にいかしていく。

ここで学ぶことを通して、これからであう社会問題を見ていく。
そういうツールにいかしてほしい。

語る私も変わっていく。


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熊本日日新聞の記事 2011年09月23日

10年目迎えた「水俣学」 当事者の“肉声”に学ぶ
http://kumanichi.com/feature/minamata/kiji/20110923001.shtml

写真
◇はなだ・まさのり 1952年生まれ。京都大大学院経済学研究科博士課程修了。専攻は社会政策、労働経済学。原田正純氏の後任として2010年1月から熊本学園大水俣学研究センター長。熊本市在住。
 水俣病事件を学問としてとらえる熊本学園大(熊本市)の「水俣学講義」が10年目を迎えた。これまでの成果や今後の課題について、講義を企画・運営する同大水俣学研究センターの花田昌宣センター長に聞いた。(石貫謹也)

 −水俣学講義が始まったいきさつを教えてください。

 「1995年の政府解決策による未認定患者救済が終わり、水俣病事件がすべて解決したと誤解する人たちもいた。そうじゃないことを伝えるには、事件に直接かかわる人たちに、それぞれの水俣病を語ってもらうしかないと(医師で前センター長の)原田正純先生らと講義を始めた」

 −講義では患者のほか、さまざまな立場の関係者が講師を務めています。

 「この講義で学ぼうとしている水俣病事件の負の遺産の原点は、60年代ごろ、病を抱えて差別を受けた患者さん。私たちには幸い、そうした患者さんとのつながりがあり、それまで語ることのなかった過去のつらい経験を学生に伝えてもらうことができている」

 −それらの経験談から、学生はどんな影響を受けるのですか。

 「例えば水俣病をめぐる差別。水俣病の知識が正しく伝われば差別はなくなると思われがちだが、知識だけで差別はなくならない。差別を受けた当事者に会い、直接話を聞くことでしか、人間の心が変わるほどの強い思いは生まれないものだ。この講義は、そうした機会を学生に提供する場でもある」

 −2004年の水俣病関西訴訟最高裁判決を機に、水俣病事件は再び大きく動いています。講義する上で難しさはありませんか。

 「再び認定申請が増え、裁判も起き、国が当面の対応をした。事件が動き、複雑化していく中で、制度や仕組みを伝えるのは確かに難しいが、日々動いていることは事件が未解決であることの表れ。『なぜ未解決なのか』と学生がさらに探究してくれたらうれしい」

 −これからの課題は何ですか。

 「水俣病の被害は医学的側面だけでとらえられがちだった。これからは差別や風評被害といった社会的被害も合わせて考え直さなければならないし、そのことを学生に伝えていく必要がある」


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