2012年12月30日

胎児性患者の近況 シンポ「水俣病は終われない」E #minamata

胎児性患者の近況 by ほっとはうす施設長 加藤さんタケ子さん 

「『水俣病は終われない』ということについては、深く同感です」と話をはじめた加藤タケ子さんは、胎児性・小児性水俣病患者が通う社会福祉法人ほっとはうすを運営している。

日々、患者さんと接するなか、彼らの身体機能がますます低下していることは間違いないという。
全国から訪問客の絶えないほっとはうすだが、一年ぶりに患者さんと再会した人は口々に、
「(みんな)元気はあるんだけど、体がきつそう」という感想をもつという。

認定患者のなかには、ランク変更(補償のランクを変更する手続き)をしている人もいるが、希望通り、変更が認められているわけではないようだ。

また、水俣病に関する情報が届いていない地域も多く、受けられる支援があっても、その存在を知らずに過ごしてきた人が少なくないという。

このようななか、熊本県が動き出し、患者さんのお宅を訪問し始めた。
そこで紹介されて、ほっとはうすに通うようになった胎児性患者の方が数人、今年は増えたそうだ。

加藤さんはいう。

「この人たちの話を聞いてみると、これまでずっと、水俣病のことは話さないできたというのです。若いころは隠しながら、どうにか生きていくことができたのだけど、この世代になると、胎児性(患者)が50代ですから、兄弟は同じような年齢を超え、両親は亡くなっているか、(子どもの)介護をするのがきつい世代。経済的にもきつくなっていく。そういう方々なんですね」

「障がい者手帳をもたない場合は、厳しい生活だと思います。幸い、みかん山をもっていたりして、どうにかやってきた方々。新たな課題が続出している現状があります」

「特に、認定された患者さんについては、補償金で償いは済んだといわれがちですが、社会のなかで、この方たちがふつうに暮らしていくには、社会福祉システムが欠落している。この部分も含めて、水俣病の責任だと思います」

後半は、ほっとはうすの若いスタッフが選んだという日々の活動スナップ写真の紹介。
写真に写っている人からは、許可をもらっていることを説明し、岩坂すえこさんという患者さんの写真をスクリーンに写した。

s-R0125651.jpg

「かつて、土本憲昭監督が(彼女のことを)撮影し、お母さんに撮ったということで怒られたという、あの、岩坂すえこさんです。ご両親は亡くなり、お姉さん二人と、ご兄弟3人で…。明水園からほっとはうすに通うようになりました。お姉さんたちは、すえこが希望するところには、どこにでもだしてほしいといわれています」

もう一人、同じく明水園からほっとはうすに通うようになった女島出身の福浦さんについても紹介。
明水園で約10年過ごし、今年9月から土曜日だけ、ほっとはうすに顔をだすようになったとのこと。
同じ明水園で暮らしている鬼塚勇治さんや半永一光さんが、週に何回かほっとはうすに通い、そのうちの一回は、レスパイト(短期の宿泊)を利用している姿をみて、自分もやってみたいと考えるようになったそうだ。

年末には、毎年恒例のほっとはうす主催(今年は、松永幸一郎さんが幹事)の忘年会がある。
今年の忘年会は、福浦さんにとって、“人生で初めての”忘年会になるとのこと。

私はまだお会いしたことはないが、50代の患者さんだとしたら、この年で迎える初めての忘年会とは…。少し考えただけで、福浦さんのこれまでの人生が目に浮かぶ。
そして、ほっとはうすと出会えたことを、とても嬉しく思う。

なお、忘年会を楽しみにしているのは、福浦さんだけではない。
岩坂すえこさんも、心待ちにしている一人だ。
彼女は忘年会に備えて、髪をカラーリングして、パーマをかけるのだとか。

加藤さんからこのような話を聞いて、患者さんにとって、忘年会は一大イベントなのだと実感した。
忘年会が終われば、クリスマス会が(ほっとはうすでは、忘年会が先)、新年になれば、新年会、成人を祝う集いが続く。

たくさんの出会いと笑顔が生まれるますように。

シリーズ “シンポ「水俣病は終われない」”
坂本龍虹さん「水俣病に学び伝えたいこと」シンポ「水俣病は終われない」より@
おしたようこさん「我が家の水俣病事件」シンポ「水俣病は終われない」よりA
溝口訴訟 最高裁の現在 シンポ「水俣病は終われない」よりB
特措法締め切り後の現地状況 シンポ「水俣病は終われない」よりC
「水俣条約」が水俣の教訓を反映していない!?シンポ「水俣病は終われない」よりD
胎児性患者の近況 シンポ「水俣病は終われない」E
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「水俣条約」が水俣の教訓を反映していない!? #minamata

水銀の使用を規制する国際的な条約づくりが進むなか、
日本政府は、条約を「水俣条約」と呼び、条約の調印を水俣で行うことを希望しています。
ところが、このままだと、「水俣条約」なるものは、水俣の教訓を反映していない条約になってしまう可能性があります。

一体、どういうことなのでしょう。

被害者も「水俣条約」反対 内容に具体策明記求める
2012年12月28日 00:12 西日本新聞朝刊

 来年秋に熊本県で締結予定の水銀汚染防止条約について、水俣病被害者互助会など被害者4団体や市民グループが27日「条約案に水俣の教訓が生かされていない」として、名称を「水俣条約」とする環境省提案に反対する共同声明を発表した。

 条約は来年1月にスイスで開かれる国連環境計画(UNEP)の政府間交渉委員会会合で各国が内容について合意、同10月に熊本で正式採択される予定。環境省は「水俣の経験を世界に発信したい」との立場から条約名を「水俣条約」とするよう提案している。

 これに対し声明は、条約案は水銀の排出規制に向けた努力目標にとどまり、汚染が現実化した場合の具体的対応策が明記されていないと指摘。条約案に「汚染地域への責任と修復、被害者への補償を汚染者に求める」−など4項目を明記するよう要求。「内容が変更されない限り、命名に同意できない」としている。

 声明はこの日、宮本勝彬・水俣市長に手渡されたほか、関係省庁にメールや文書で送られた。

 「水俣条約」の命名をめぐっては水俣市議会も「風評被害が永遠に続く」として19日に反対の意見書を可決している。

 環境省環境保健部は「途上国を含め多くの国が参加することで、実効性のある条約となるよう交渉に努める」としている。


この記事にあるように、被害者4団体や市民グループが、「水俣条約」とすることに反対する声明文を出しています。

この声明文は、宮本勝彬・水俣市長に加え、
安倍晋三・内閣総理大臣
岸田文雄・外務大臣
茂木敏充・経済産業大臣
石原伸晃・環境大臣
蒲島郁夫・熊本県知事
にも送られました。

声明文では、水銀条約の最終交渉会議で議論される“汚染サイト”に関する条約部分に、
「水俣の教訓」が反映されていないとし、以下の点を条約に含むべきとしています。

 1:汚染サイト(汚染された土地・場所)への責任と修復を汚染者に求めること
 2:全ての被害者への責任と補償を汚染者に求めること
 3:国と汚染者に被害の全貌解明のための徹底的で透明性のある調査を求めること
 4:被害に関連する情報をすべて開示すること

水俣病の全容解明はなされていません。国は水俣・近隣地域の調査を拒んでいます。
被害者の救済は道半ば。環境省も「救済策」では水俣病は終わらないと発言しています。
水俣湾には150万㎥にも及ぶ水銀ヘドロが、工事着工以来30年以上、未処理で暫定的に埋め立てられたまま。
チッソの八幡残渣プールも未処理です。

このように、何一つ終わっていないし、終わる見通しも立っていないのです。

「水俣条約」とすることについて、被害者団体は、「水俣病被害者の尊厳を冒涜するものであり、水銀条約の権威を損なうことになる」と考えています。

本来なら、「水俣の教訓」を尊重し、水銀条約に反映させることこそが、
水俣病を経験した日本政府の責務であるはずです。
それがなされないまま、条約名に「水俣」とつけることは、同意できないということなのです。

水銀条約の内容については、これまで何回かの国際会議で議論されてきました。
2013年1月にスイスのジュネーブで行われる5回目の会議で、最終的な内容が決定するとのこと。

内容に問題のある現在の水銀条約について危機感をもつ国際的なNGOネットワーク(IPEN)は、
水銀条約について交渉する各国の代表者に、提案書を送っています。

現在協議されている水銀条約の内容のままでは、人の健康と環境は守れないこと。
よって、日本政府が提案している「水俣条約」という名前に値しないこと。
したがって、条約には他の名前を選ぶべきだ、という内容です。

最終交渉の場は来月に迫っています。

参考:水銀問題への国際的取り組み(化学物質問題市民研究会)

※12月8日に東京で行われたシンポで、化学物質問題市民研究会の安間武さんが、「水銀条約の問題点」について報告されています。本ブログ後半の、IPENの提案については、シンポでご紹介いただいた内容です。
よって、今回のブログ記事は、シリーズでご紹介している、“シンポ「水俣病は終われない」より”の第5弾
と位置づけておきます。

INC2会議風景s.JPG
政府間交渉委員会の第二回(INC2)の様子

24日のNGO発言s.JPG
政府間交渉委員会の第二回(INC2)本会議で発言する坂本しのぶさん
「日本政府はまず、国内の水俣病問題とむきあうべき」
「本質的な水俣病の解決がされないかぎり、条約名に水俣の名を使うべきでない」とアピール。
会場に現れた松本龍環境大臣(当時)と近藤昭一環境副大臣(当時)に、アピール文を手渡しました。


●水銀条約に関する過去の記事●
2011年09月21日 振り返り)国際的な水銀規制条約制定の動き
2011年01月27日 世界のNGOが水俣病被害者の思いに賛同

●シリーズ “シンポ「水俣病は終われない」”●
坂本龍虹さん シンポ「水俣病は終われない」より@
おしたようこさん シンポ「水俣病は終われない」よりA
溝口訴訟 最高裁の現在 シンポ「水俣病は終われない」よりB
特措法締め切り後の現地状況 シンポ「水俣病は終われない」よりC
「水俣条約」が水俣の教訓を反映していない!?シンポ「水俣病は終われない」よりD
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2012年12月24日

特措法締め切り後の現地状況 シンポ「水俣病は終われない」よりC #minamata

谷洋一さん(水俣病被害者互助会事務局)による特措法締め切り後の現地状況
水俣病は終われない.jpg

申請者6万人越えをどう見るか
「不知火海沿岸地域に約20万人が住んでいると考えても、3分1弱にすぎない。
不知火海の魚が流通していた範囲で考えれば、200万人はくだらない。
この200万人のなかには、症状がはっきりしている人もいれば、まだ自覚がない人もいる」

自分の健康状態はふつうだと思っていた人が検診を受けて、初めて自分に水俣病の症状があることを知ったという話しはよくあるという。

70年代に水俣入りした谷さんは、40数年来、数千人の被害者の話をきき、認定申請や行政への申し立てをしてきた。

だからこそ谷さんには、

「6万人を超える申請者のそれぞれに人生があり、悲しみ、苦しみがあるということ。それらを隠しながら、やむをえず申請できなかった人がいること。こういう状況のなかで、水俣病が進行しているということを理解してほしい」
という。

谷さんが水俣に通い始めた70年。認定患者は121名だった。
鹿児島の出水で訴訟家族の手伝いをしながら、「あそこのおじいちゃんは、寝たきりだから水俣病かもしれない」「あそこのこどもは、どうも胎児性水俣病らしいよ」と聞いては会いに行ったそうだ。
あの当時、「何百人かの被害者がいるかもしれない」と谷さんは考えていたが、
まさかその数が「6万人」になるとは、考えていなかったという。

これまで被害地域として考えられていなかった地域でも、被害を訴える人がでてきているという。

天草の上島や下島、牛深の人たち。
八代で魚を食べていた人たち。
熊本市内では、毛髪水銀値が106PPMの人がいたという。しかし、市内に発病した人がいたかどうかはわかっていない。
人吉にも魚は流通していたが、被害は確認されていない。
鹿児島の大口では、検診を受けた30人のうち、20数人に症状があることが確認された。

「6万人を超える申請者の被害のなかに、改めて水俣病を学びなおす必要があるのでは。
水俣病事件は終わるところではない。戦いはまさに続いている」

政府が水俣病を公式に確認してから56年がたつなかで事態は進行し、
一方で、"水俣病は終結する″という話をしている。
だが、今回のシンポジウムのタイトルは、「水俣病は終われない」である。


当時の認識を覆す現状
谷さんに寄せられた相談から。

一人は名古屋生まれの女性。名古屋で魚は食べなかったが、水俣の漁師と知り合いになり恋に落ちた。両親は水俣病を理由に結婚に反対したが、その女性は水俣病は終わった思い、結婚に踏み切った。現在、その女性は手がしびれて、コップがもてず、車の運転も長時間できない。

もう一人は長崎・壱岐生まれの女性。魚はあまり食べていない。認定患者を兄にもつ人と結婚、水俣に来た。71年〜72年ころに水俣で魚を食べる暮らしに入っている。感覚障害、運動失調もあり、彼女を診た医師は「水俣病にまちがいない」といっている。認定申請をしたが棄却されている。

水俣で70年代を過ごした谷さんも、
「あのころ人々は、海の汚染は終わっていると思っていた。私も漁師の家でだされたサカナを食べていましたから」と話す。

おしたようこさんの話にふれ、昭和40年代(1965年〜)の胎児期の暴露(妊娠中の母親の暴露)の場合は、どのような影響があるのかについての調査がないが、汚染の量が昭和30年代に比べて少なくても、症状がでているという事実は受け止めなくてはならないと訴えた。

行政不服申立
溝口訴訟
被害者互助会訴訟
大阪Fさん訴訟
Iさん訴訟
・・・水俣病関連の裁判が続いている。

裁判とは別に、行政不服申立をする人もいるという。
現在、800件弱の行政不服が申し立てられ、半数が取り下げになり、残る半分のうち、13件が取消しを勝ち取ったそうだ(認定にもっていけたケース)。
件数は少ないが、「たたかって勝ち取ったケース」であり、現在も行政不服を続けている人はいるそうだ。

「水俣条約」の是非
水俣病の教訓をふまえて、水銀が国際的に規制されることは喜ばしいこと。
そのことが条文として明文化されることには期待があると谷さん。
しかし水俣の現状は、「水俣の教訓をふまえている」とは言い難いようだ。

「私たちが(この間)求めている被害全容の解明、加害責任の検証、チッソや国が責任を果たすのかどうか、といったことについては、納得のいく解決を見ていない」
という。

「政府の「救済法」はごまかしです。見舞金契約以来の被害の隠蔽であり、一時金で黙らせている。医療費だけは払ってやるから、一切の権利を請求するなという脅かしだ。こうした動きをする国とはなんでしょうか」

「今、選挙前ですが、国の官僚を信頼していますか? 政治家を信頼していますか?と聞かれたら、信頼していると答える人はいるでしょうか。水銀規制条約の交渉の場には、国(官僚)が交渉人として参加し、条約名を「水俣条約」にすることを議論しているのです」

「水俣条約」と命名することに賛成か反対かと聞かれれば、
「水俣病を繰り返さないということが生かせる条約ができるなら賛成」だという。
それができないなら、「水俣」という名前を使うことに値しないと話した。



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2012年12月23日

溝口訴訟 最高裁の現在 シンポ「水俣病は終われない」よりB #minamata

溝口訴訟 最高裁の現在について
山口紀洋さん(溝口訴訟弁護団)

水俣病は終われない.jpg

水俣病事件をめぐる現状認識
「特措法(政府の「救済策」)の申請受付を7月末で締切ることに抗議する声はあったが、締切り翌日の8月1日、一揆がおこったわけではない」
と話し、何も起きなかった「平穏な状態」は、結果として特措法のやり方を「支持」(黙認)しているという指摘として私は受け取った。

特措法による「救済策」に申請した人は約6万5000人。

救済対象になるには、水銀曝露が確認され、感覚障害があることが最低条件。このような条件を要求されていながら、救済対象者になっても、「水俣病」という社会的な承認は得られないのが「救済策」である。
水俣病という社会的な承認が得られないことは、70年代に川本輝夫さんや一次訴訟の原告らが勝ち取った補償協定(補償金1800万〜1600万)の対象でないということを指摘し、

「このような状況をつくりだす特措法を許してはいけないというのが、私と会場の皆様の考えだろう」と述べた。

被害者が被害者と認められない。
放置されたままの被害者がどれくらいいるのかもわからない。
悉皆(しっかい)調査を一度もせず、データをとっていない。
行政があつめた医者によって、ある者は水俣病だと認められ、ある者は認められず。
認められない者は特措法に(過去であれば95年の政府解決策に)おいやられていく。

「この状況に、満腔(まんこう)の怒りをもって対決しなければならない」と訴えた。

水俣病をめぐる裁判
最高裁には3つの裁判(溝口訴訟。Fさん訴訟。Iさん訴訟)がもちこまれていて、いずれも、行政の主張する水俣病の要件「52年判断条件」が正しいかどうかが争点になっている。

「ピンチであり、チャンスでもある」
52年判断条件が医学的にも行政的にも、公健法の主旨としても間違っていることが最高裁で認められれば、特措法の強行による現在のねじれきった水俣病体制が解決できると、山口氏は話した。

溝口訴訟では52年判断条件はどう考えられているのか。
福岡高裁(原告勝訴)の判決では、
「(52年判断条件の)運用に問題があると書いていて、52年判断条件(自体)については、一定の意味を認めている。それでも実質的には、52年判断条件を初めて否定したといっていい。原告団の主張を大変な共感をもって(判決文に)とりいれている。ただし、直ちに行政が52年条件条件を撤回するほどの言葉ではなかった」
と山口弁護士は解説する。

52年判断条件を真正面から戦い、最高裁の文言として否定しないかぎり、特措法体制は打破できないという。

「よって、われわれに選択の余地はなく、52年判断条件の違法性を最高裁に明文化させなければならない。司法の場では、支援者、被害者はこの一点に集中して支援してもらいたい」

溝口訴訟の経過
福岡高裁で勝訴(2012年2月27日)。
高裁で負けた熊本県は判決を受け入れず、熊本県知事は上告(3〜4月)。
県の上告に対して、原告(患者側)は、答弁書を提出して反論。

最高裁がこれらの書類を読み終えたところで、山口弁護士ら弁護団に指示があるのではないかとのこと。
弁論を開くことになるか、県知事の上告申し立てを受理せず却下するか…

「行政は、52年判断条件に合わないから(溝口チエさん:原告の母)を却下して何が悪いという主張。我々は反論として、52年判断条件には根拠がないことを訴えたい」


(NHK 2月27日 18時15分) 高裁で国の水俣病基準を否定
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120227/k10013321951000.html

水俣病の認定を巡る裁判で、福岡高等裁判所は「現在の国の判断基準だけで認定するのは不十分だ」と指摘し、申請後に亡くなった女性について、熊本県に水俣病の認定を命じる判決を出しました。
高等裁判所が国の認定基準を否定する判断を示したことで、未認定患者の救済の流れに影響を与えることも予想されます。

この裁判は、昭和49年に水俣病の認定を申請し、3年後に死亡した熊本県水俣市の女性を巡って争われたもので、1審の熊本地方裁判所は、平成7年に申請を退けた県の判断を「妥当だ」とする判決を出していました。
27日の2審の判決で、福岡高等裁判所の西謙二裁判長は「現在の国の判断基準だけで水俣病かどうかを認定するのは不十分だ」と指摘しました。
そのうえで、女性の手足に感覚障害があったことなどに加え、当時の生活状況なども検討して、「水俣病と認められる」と結論づけ、県に患者としての認定を命じる逆転判決を言い渡しました。
水俣病の認定を巡っては、おととし、大阪地方裁判所も国の認定基準を否定する判決を出しています。
今回、高等裁判所が同様の判断を示したことで、認定を求める人が今後増え、未認定患者の救済の流れに影響を与えることも予想されます。

未認定患者の救済策に影響も

昭和52年に国が示した水俣病の判断基準では、「感覚障害」や、視野が狭くなる「視野狭さく」など、複数の症状があることが水俣病の認定に必要だとしています。
この基準に適合せず水俣病と認められない人たちは各地で裁判を起こしていますが、このうち平成16年の関西訴訟の最高裁判決は、一定の要件を満たせば感覚障害があるだけで水俣病と認める判断を示しています。
また、おととし7月の大阪地方裁判所の判決でも「医学的な正当性を裏付ける的確な証拠はなく、基準を満たさない場合でも総合的に考慮して水俣病と認められる」と、国の認定基準を明確に否定しています。
今の基準だけで水俣病かどうかを判断するのは不十分だとした今回の判決を受けて、認定を求める人が増えることも予想され、7月末で申請が締め切られる、未認定患者の救済策に影響を与えることも予想されます。

原告側“有益な判決”

原告の弁護士は「国の認定基準を否定した全面勝訴だ。生活歴や病状などを総合して水俣病の患者を認定し、行政に対応のやり直しを求める有益な判決で、上告しないよう求めたい」と話しました。

熊本県“国と協議したい”

熊本県の蒲島郁夫知事は「判決については重く受け止めている。判決の内容を聞いたばかりなので、今後は国と協議していきたい」と述べました。(追記:熊本県知事は3月7日に上告)

環境省“相談あれば熊本県と協議”

今回の判決について、環境省特殊疾病対策室は「判決の内容をまだ確認していないので、コメントは差し控えたい」としたうえで、「被告が熊本県であり、県から相談があれば一緒に協議していきたい」としています。



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2012年12月15日

おしたようこさん シンポ「水俣病は終われない」よりA #minamata

水俣病は終われない.jpg
12月8日行われたシンポのチラシ


今回は、おしたようこさん(30代 胎児性水俣病患者疑い)の話。

おしたさんは1974年、兵庫県生まれの38歳だ。
関西生まれだが、胎児性水俣病患者である疑いを抱えている。

おしたさんの両親は不知火海沿岸地域生まれ。両親は1973年に結婚。兵庫県へ移住した。
その翌年、おしたさんは生まれた。

小学校時代は、教室の机から動くことができないほど強い頭痛に見舞われた。
高校時代、定期的に頭痛や倦怠感に悩まされ、保健室に通った。
大学卒業後、小学校教諭として働き始めるが、31歳のとき、体調不良はピークをむかえた。
教師の仕事を休職。以後、体調は回復せず、35歳で退職。

休職中だった2006年、水俣病が政府に「公式に確認」されてから50年ということで、水俣病の記事が新聞に載ることが多くなった。

ある日、おしたさんの目に水俣病の記事がとまり、自分の体調不良は、もしかしたら水俣病なのではと疑った。
そう疑うようになった理由はいくつかあった。

「母の叔母の子どもの一人目はすぐ亡くなった。二人目は当時、脳性マヒといわれていて、17歳で亡くなった」(おしたさん)

この17歳で亡くなった(親戚の)お兄さんは、死後、胎児性水俣病患者として認められている。寝たきりで話すことができなかったこのお兄さんは、帰省した母の実家では、いつもおしたさんと遊んでくれたという。

「家系図をかいてみると、母の姉妹がうんだ子どもは、みな病弱」
「認定されたお兄さんと私は、同じ家で同じ魚を食べた人たちの子どもなんですね」

 死後認定となった親戚のお兄さんが生まれたのは1961年。
 おしたさんが生まれたのは1974年。
 母親と叔母は、一時期同じものを食べていた。
 おしたさんの母親は、おしたさんを妊娠する直前まで、不知火海沿岸地域で生活をしていた。

*   *   *

政府が今年(2012年)7月に申請窓口を締め切った「救済策」は、1969年11月までに生まれた人が対象だ。
これは、チッソ水俣工場の排水が止まったのが1968年5月だったことから、「救済策」の対象となる人の生年月日を区切ったからである。
しかし、排水が止まったからといって、1969年以降に生まれた人に影響がないとはいいきれない。

*   *   *

大阪には、阪南中央病院という水俣病関西訴訟の原告たち(水俣病の被害者)が通う病院がある。その病院には原告の子どもたちが体の不調を訴えに来る。彼らはおしたさんより年上の世代だという。

阪南中央病院を訪れたおしたさんを診察した医師は、水俣病に特徴的な症状のひとつ・感覚障害が彼女にあることを確認した。

医師は、おしたさんを「胎児性水俣病疑い」と診断した。
6年前のことだった。

おしたさんは、もうひとつ、病気をかかえている。線維筋痛症という難治性疾患だ。

「この病気の治療には抗うつ剤が効くけど、抗うつ剤は水俣病ではあまり使わない薬。顔のしびれなどは、線維筋痛症ではあまり見られないと線維筋痛症の専門医はいっているのです」
 
線維筋痛症の症状もあるし、水俣病の症状もある。それがおしたさんなのだ。
あえて補足するなら、線維筋痛症の人は水俣病にならないか、というと、そうではないということ。

しかし、水俣病の被害を過小評価したい人たちは、水俣病の症状を訴える人たちを、別の病名由来の症状だと言い放ち、補償や救済、謝罪をしなくていいように「処理」する。被害を訴えている人たちの食生活、同じものを食べていた人たちの病気の記録などを丁寧にみていけば、有機水銀による症状であることは間違いなくても。
 
おしたさんの家族や親戚には、これまでに打ち出された水俣病対策の対象者が含まれている。

母親は「被害者手帳」保持者(「新保健手帳」から切り替え)
父親は「被害者手帳」保持者
両親の双方の祖母、漁師の叔父夫婦は「医療手帳」保持者
母の叔母の息子は胎児性水俣病認定患者(死後認定)

繰り返しになるが、おしたさんの母親は、おしたさんを妊娠する数ヶ月前まで、不知火海沿岸地域に暮らし、魚を食べていた。


*   *   *


教師の仕事を辞めてからは、月3万円ほどの医療費の支払いが、おしたさんの家計の重荷になってきた。「せめて医療費の補助だけでももらえたら」と思い、今年、「救済策」に申請をした。73年生まれの彼女は救済の条件を満たしていないが、1969年末以降に生まれた人でも、へその緒、胎毛筆(赤ちゃんの筆)の毛、妊娠中の母親の毛髪など、有機水銀摂取の可能性を示すものがあれば、“総合的に判断”されることになっているからだ。

おしたさんは、へその緒を提出した。

回答を待つこと数ヶ月。
おしたさんは棄却された。

*   *   *

おしたさんの母親が生まれ育った環境、食生活をともにした兄弟や親戚の体調不良。認定患者が親戚にいることを考えると、首をかしげたくなる。

棄却の理由も、救済の基準も明らかにしない「救済策」。

これが水俣病事件の加害責任を負う政府のやり方なのだろうか。


水俣病は、今夏の「特措法締め切り強行」のもと、未認定・潜在患者を
様々に切捨て、積み残したままの「幕引き」が懸念されます。
(略)
総選挙、そして東京では都知事選も含めて喧騒の師走となり、
選挙では「脱原発」やフクシマの被害補償も重要な争点となっていますが、
水俣病のまっとうな解決は、福島原発事故の責任を
国と東電にきちんと取らせる上でも、重要な前例となります。

2013年にはまた、国際水銀条約締結や海づくり全国大会が
熊本県を会場に行われる見込みですが、それらを「水俣病幕引き」のセレモニーとさせてはなりません。
患者被害者・住民への支援を継続し、終わらない、終われない水俣病 を、最後まで見届けましょう。

シンポジウム趣旨より一部抜粋


水俣病、救済対象外でも80%超に症状 住民健康調査
2012/7/19 2:05 日本経済新聞
 水俣病被害者団体と医師らでつくる実行委員会は18日、6月に行った熊本、鹿児島両県の八代海(不知火海)沿岸の住民健康調査で、国が救済対象としていない地域や年齢の住民の80%以上に手足の感覚障害など水俣病特有の症状が確認されたと発表した。
 国は水俣病特別措置法に基づく救済策の申請受け付けを7月末で締め切るとしている。都内で記者会見した実行委委員長の藤野糺医師は「潜在的な患者がたくさんいることが明らかになった。救済策の締め切りをやめるよう国に要請したい」と話した。
 調査は6月24日、過去最大規模の約1400人に実施。実行委は受診者全体の87%に症状が確認されたとの結果の概要を6月に発表していた。
 今回はそのうち、特措法の対象外の住民について分析。その結果、救済策の対象地域に居住したことのない573人中504人(88%)に症状が確認された。救済対象外となっている1969年12月以降に生まれた41人中35人(85%)にも、同様の症状があった。〔共同〕


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落合恵子さんのブログや、講演内容を時系列にまとめたエッセイ集。
2012年6月14日は「水俣の教訓」として、原田正純さんの言葉を紹介している。

水俣の教訓を残してゆくために、忘れてはならない視点がある。
第一は、弱者の立場で考えること。政策や研究とは、そもそも弱者の立場を基本にすべきである。
第二はバリアフリーだ。素人を寄せつけない専門家の壁、研究者同士の確執、行政間の壁などが、患者救済や病像研究をどれだけ阻害してきたか、私は目の当たりにしてきた。
そして第三は、現場に学ぶということだ。
事実は現場にしかない。



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2012年12月14日

坂本龍虹さん シンポ「水俣病は終われない」より@ #minamata

シンポジウム「水俣病は終われない」が12月8日、東京で行われ60人ちかくが集まった。

環境省は7月末で水俣病の救済窓口を締め切ったが、窓口の閉鎖によって、水俣病事件が解決したわけではない。そのことを象徴するシンポ講演者の話を紹介する。

水俣病は終われない.jpg
12月8日行われたシンポのチラシ

まずは、水俣在住の坂本龍虹さん(水俣病被害市民の会代表)。

坂本さんは、今年7月、政府による救済策ではなく、「水俣病患者」として行政に認定させることを求める公害健康被害補償法に基づく認定申請をした。政府の救済策では、救済対象者になっても、「水俣病患者」として認めるわけではなく、加害責任を負う国や県、チッソとの関係は曖昧なまま、裁判をおこす権利や、認定申請をする権利は奪われるというもの。

坂本さんは、「私は78歳。行政認定を勝ち取るには年をとりすぎているが、後世に自分の水俣病について説明できる被害者でありたい」との思いから行政認定を選択したと話した。

これまで水俣病被害者を支援する立場だったが、検診で水俣病に特徴的な症状が確認されたことを機に、被害者として戦う決意をしたという。志を共にする地元在住の10人で、「水俣病被害市民の会」を立ち上げたのが7月13日。7月18日は7人が認定申請をした。

現在申請者は10人に増えた。水俣病患者への差別が最も厳しかった70年前半、献身的に患者に寄添い続けた日吉フミ子さん(元水俣市議)も認定申請中だ。

「まだまだ地元には申請を躊躇している人が多数いる。そういう人と一緒に徹底的に闘いたい」と坂本さん。

           *    *    *


水俣病が「救済策」で終わると思ったら大間違いである。

「救済策」の根拠になっている特別措置法には、「公健法に基づく新規認定等を終了する」とあり、既存の認定申請制度をなくしてしまう可能性がある。「救済策」を7月末で締め切る際、窓口の延長を望む声は多数あった。たとえば、子どもが結婚するまで申請はできないとか、あと数年でチッソ関連会社を定年退職するけど今は申請できないとか。ある人は、自分に水俣病の症状があることに気づいていない。なぜなら、周囲の人もみな、同じ症状をもっているから、それが普通だと思っているのだ。

潜在患者――は、必ずいる。そうした人たちが取り残されてしまうことを十分承知の上で、政府は「救済策」を締め切った。有機水銀暴露地域の健康調査もせずに。

そのうえ、公健法に基づく認定申請もなくしてしまうかもしれないのだ。

坂本さんたちの認定申請は、ご自身の水俣病の加害責任を問う戦いでもあるが、これから後の世代に、認定申請という制度を残していく挑戦でもある。


           *    *    *

次回は、おしたようこさん(30代 水俣病胎児性患者疑い)を紹介する。


水俣病患者とともに 日吉フミコ-闘いの記録  
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2012年12月09日

シンポジウム「水俣病は、終われない」 #minamata

以下のシンポジウム、無事終了しました。
水俣病は終われない.jpg


チッソと国の水俣病責任を問うシンポジウム 水俣病は、終われない   

12月8日(土) 12時半開場 午後1時―5時
YMCAアジア青少年センター 9階 国際ホール

プログラム  (敬称略)                                                                  
*講演  チッソの経営状況と補償の現在 矢作 正(経営学/「技術と社会」資料館)

*お話  水俣病に学び伝えたいこと  坂本 龍虹(水俣病被害市民の会)

*お話  我が家の水俣病事件 おした ようこ(兵庫県出身/胎児性患者疑い)

*報告  山口 紀洋(溝口訴訟弁護団)
谷 洋一(水俣病被害者互助会事務局)
加藤 タケ子(ほっとはうす)   
安間 武(化学物質問題市民研究会)

*討論   

主催   チッソと国の水俣病責任を問うシンポジウム実行委員会
協力   東京・水俣病を告発する会    最首塾


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2012年11月20日

『阿賀に生きる』 #minamata

『阿賀に生きる』試写会行ってきました!

11月24日(土)より渋谷ユーロスペースにて!
『阿賀に生きる』公式サイト 

新潟第二次訴訟 真っ只中の80年代に撮影された映画。
裁判が終わった今見ると、特別な思いがあります。
毎月一度、裁判所に通う原告の水俣病被害者の姿をみて、
このころは裁判での勝利を目指していたのだと、しみじみ感じ入ってしまうのです。

この映画の魅力は、なんといっても3組の老夫婦の生き生きとした姿です。
顔のしわは、彼らの人生の軌跡。

映画を見て、自分を振り返り、近代への道を猛進してきた現在の世の中を振り返ったとき、
彼らとは対極にいる私たちの存在は、なんて軽い存在なのかと考えました。

出会いと別れ
阿賀野川が、絶えず流れていくように、人間関係も変わっていきます。
映画にでてくる3組の老夫婦と、阿賀の川のほとりに住み込んで3年、
映画を撮り続けた7人のスタッフとの関係も変わっていく。

現地に住み込み、村の生活にとけこんで、気心しれた間柄になっていく。
しかし、映画の撮影が進めば進むほど、彼らとの別れも近づいてくる。

最後の撮影が終われば、ここを去らなくてはならない現実。
閉ざされていた扉が少しずつ開き、彼らにしか撮影できないシーンがカメラに収められたいく。
両者の距離が近くなればなるほど、この先にやってくる別れはつらくなるのだが。

私たちはみな、事情は違えど、同じような体験をどこかでしている。
大事な人を残して、そこから離れていくという選択。
「さみしくなるねぇ」
と、誰かにいわれたことはなかっただろうか。
あるいは、去っていく相手に対して、そう思ったことはないだろうか。

別離が悲しいほど、両者のつながりも深いわけで、
もし、そのような自分に近い関係にある人が、水俣病の被害を受けていると知ったら、どんな気持ちになるのだろう。

映画で、カメラが水俣病で震える手を偶然とらえたシーンがあるが、
つつましく生きている老夫婦たちの日常を見ているだけに
「豊かな暮らしとは何か」
と、私は問われた。


もう一つ。

坂東克彦弁護士
昭和電工と国を被告とする国家賠償請求訴訟(新潟第二次訴訟)が1982年に起こされます。
原告は、水俣病の認定を棄却された患者でした。
原告団長を務めたのは、映画に登場する坂東弁護士。
映画では、雨のなか傘をさしながらハンドマイクを片手に、昭和電工の説明をされているのが坂東弁護士です。
新潟第二次裁判は、1994年に和解の道を選ぶことになり、12年間原告団長を務めてきた坂東弁護士は団長を辞任するのです。

坂東弁護士の和解への思いは以下のとおりです。

裁判上の和解というのは、当事者の双方に落ち度があったり、歩み寄りが必要なときに行われる手続きです。
水俣病についていえば、被害者には何の落ち度もありません。
(略)
国に対する責任を放棄するというのならいざ知らず、そうでなく、解決へのリーダーシップを裁判所にとらせるには、少なくともそれなりのリスクを覚悟しなければなりません。


1994年には村山内閣が成立し、政治的解決策が模索されたころ。
坂東弁護士は、「政府が政治決着で因果関係をあいまいにしようとするのは、環境行政の誤りを認めたくないため(略)政治的解決は、言い換えれば政治的幕引きだ」
と述べています。

実際、水俣病の歴史を振り返ると、1995年に第一の政治決着(政治解決)がなされ、裁判で国や昭和電工、チッソの加害責任を追及していた被害者たちは、水俣病患者と認定されることもないままに、裁判を取り下げ、政府が提案する「救済案」へと流れていったのです。

数年前、坂東弁護士に阿賀野川周辺の患者多発地域を案内していただいたときのこと。
急に雨が降ってきたので、傘をさしながら、ハンドマイクを使ってご案内いただいたのです。

そして先日の試写会にて、20年前にも同じように、傘をさし、ハンドマイクを片手に新潟水俣病の現場説明をしている坂東弁護士の姿がスクリーンの中にありました。

「現場こそ最良の教師なり」
「毒まんじゅうを食ってはならない」
という坂東弁護士からいただいた教訓の言葉。
坂東弁護士は、この間ずっと、教訓を貫かれてこられたのでしょう。

時代が変わりゆくなかで、変わらないものが、ここにありました。



新潟水俣病の三十年 坂東克彦
ブログ内での坂東弁護士の発言は、この本からの引用です。
新潟水俣病の三十年

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追伸:時間がないなかで、急いでこの文章を書きました。
誤字脱字、ご容赦ください。
『阿賀に生きる』の公式サイトもぜひご覧になってください。

マスコミ向け試写会、あるいは20年前のロードショーで『阿賀に生きる』を見た方他のつぶやき。
関係者のつぶやきもあります。








posted by みの at 01:38 | TrackBack(0) | 水俣 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月05日

#ETV 「原田正純 水俣 未来への遺産」 #minamata

2012年11月4日に放送されたETV特集「原田正純 水俣 未来への遺産」に関するつぶやきを、毎度のことながらまとめてみました。

minori_okd 「#NHK #ETV 「原田正純 水俣 未来への遺産」 #minamata #水俣病」をトゥギャりました。 http://t.co/M8kPl2ks at 11/04 23:18


posted by みの at 16:28 | TrackBack(0) | 水俣 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月15日

まとめ チッソ水俣病関西訴訟最高裁判決8周年のつどい

10月14日に行われた集いの情報をまとめました。

集会開催中のつぶやき(ツイート)まとめ
※映像アーカイブもリンクされています。


IWJによる集会映像まとめサイト
2012/10/14 【大阪】チッソ水俣病関西訴訟集会 チッソ水俣病 なぜ終わっていないのか

集会チラシ
チッソ水俣病(表).jpeg チッソ水俣病(裏).jpeg



補足
今回の集会を主催された「知ろっとの会」の皆様による「水俣甚句」(2012年5月に新潟にて収録)





posted by みの at 09:13 | TrackBack(0) | 水俣 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月13日

1981年、水俣病患者の川本輝夫さんらが所属する「水俣病患者連盟」は、水俣病のことを「チッソ水俣病」と呼ぶことを宣言した

1981年、水俣病患者の川本輝夫さんらが所属する「水俣病患者連盟」は、水俣病のことを「チッソ水俣病」と呼ぶことを宣言した。

高校の教科書から「チッソ」という企業名が削除されつつあることへの危機感からだった。

水俣病の原因企業がチッソであることを社会に訴え続けていくため、
患者団体の名称も「チッソ水俣病患者連盟」に変更した。

あれから約30年がたち、水俣病のことを「チッソ水俣病」と呼ぶ人はそれほどいないと感じている。

そんなか、このチラシを目にした。

-------------------------------------------
チッソ水俣病関西訴訟最高裁判決8周年のつどい
-------------------------------------------
チッソ水俣病(表).jpeg

今月14日、大阪で行われるイベントのチラシだ。

近い将来、分社化によって「チッソ」という会社が自主的に倒産し、水俣病の原因会社がなくなってしまうことを予測して、

水俣病事件の責任会社の名前を歴史上に残しておくために
集会の名前に「チッソ水俣病」とつけたという。

(チラシ裏面)
チッソ水俣病(裏).jpeg

+ + +

少し前、新聞やテレビでは“水俣病の救済”を報じていた。
細野環境大臣(当時)や、横光環境副大臣(当時)が、7月末で受付が締め切られる「救済策」に申請するよう呼びかけていた。

この「救済策」の根拠になっているが、水俣病に関する特別措置法だ。
当時の与党・自民と公明、与党だった民主党の賛成で成立した特措法の内容はおぞましい。

"水俣病の救済”を法律の名前に取り込んでいるが、
法律には、チッソが悲願していた「分社化」が盛り込まれた。
実際、2011年4月にチッソは分社化した。
遅々として進まない被害者への補償とは大違いに、分社化は手際よく進んだ。
(当時の小沢鋭仁環境大臣が認可)

分社化で誕生した新会社「JNC」には、チッソの利益部門を譲渡。
チッソ本体には、水俣病の原因企業としての責任だけが残った。

特措法は、補償責任を抱えるチッソの(計画的)倒産も認めている。

遅かれ早かれ、チッソがこの世に存在しなくなる日は来るだろう。
十分な補償がないまま、何十年と患者認定、補償を訴えてきた人を尻目にしながら
利益部門を引き継いだJNCは、水俣病事件とは関係のない会社として存在していく。
水俣病事件の責任は継承せずに。

+ + +

チッソ水俣病関西訴訟最高裁判決8周年のつどい
http://yummyseaweed.seesaa.net/article/296050778.html
posted by みの at 23:12 | TrackBack(0) | 水俣 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月06日

チッソ水俣病関西訴訟最高裁判決8周年のつどい

チッソ水俣病関西訴訟最高裁判決8周年のつどいが来週に迫りました。

チッソ水俣病(表).jpeg

チラシ裏面はコチラ。
クリックで拡大します。
チッソ水俣病(裏).jpeg

このチラシには「水俣病」ではなく「チッソ水俣病」と書いてあります。
これは、近い将来、分社化によって「チッソ」という会社が自主的に倒産し、水俣病の原因会社がなくなってしまうことを予測し、水俣病事件の責任会社の名前を歴史上に残しておく必要性から、「チッソ水俣病」と呼ぶことしたとお聞きしています。

実は今から約30年前。水俣病患者の川本輝夫さんらが所属する「水俣病患者連盟」は、水俣病のことを「チッソ水俣病」と呼ぶことを宣言していました。
高校の教科書から「チッソ」という企業名が削除されつつあることへの危機感からでした。
水俣病の原因企業がチッソであることを社会に訴え続けていくため、患者団体の名称も「チッソ水俣病患者連盟」に変更したのです。


来週、14日に大阪で行われるこの集会のタイトルは
「チッソ水俣病関西訴訟最高裁判決8周年のつどい」。
「チッソ水俣病」となっています。

関西最高裁判決で、国(環境省)、熊本県の加害責任が明らかになってから8年。
国とチッソが見捨てようとしている水俣病患者がいることを、集会で知ってください。

チラシをブログに貼り付けることもできます。以下の画像リンク先にタグあり。
チラシ(表) チッソ水俣病関西訴訟最高裁判決8周年のつどい 10月14日(日)午後2〜5時 #minamata... on Twitpic

チラシ(裏) チッソ水俣病関西訴訟最高裁判決8周年のつどい 10月14日(日)午後2〜5時 #minamata ... on Twitpic

去年の様子はこちらで。






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2012年09月30日

原田正純追悼講演会

原田正純追悼講演会(主催:水俣フォーラム)が29日、有楽町の朝日ホールで行われ参加してきました。
原田先生と親交のあった8人の方(柳田邦男さんは欠席のため、前日に届けられた原稿の代読)が、原田先生との思い出を話しました。

6月11日に原田先生が亡くなってからもうすぐ4ヶ月。
原田先生との思い出を私なりに書いたものを公開します。


・・・・・・・・・・・
原田正純さんが6月11日、午後10時12分、急性骨髄性白血病のため亡くなった。77歳
だった。

●最後は自宅で

4月末から日本赤十字病院に入院していたが、5月初旬、ご自身の意思で退院され
た。血液のがんを患っていたが、自宅では抗がん治療を行わず、減少する血小板
を補う輸血だけを定期的に受けていた。

すでに60歳直前に胃がんの手術をし、06年8月には脳梗塞の発作におそわれ、07
年9月には食道がんの手術を受けた。血液のがんとは2011年から闘っていた。

自宅療養中は、アマリア・ロドリゲスの「暗いはしけ」を聴きながら、青春
時代をふりかえり、妻の寿美子さんが大事にされていた自宅の庭をながめながら
過ごした。見舞客を笑顔でむかえ、亡くなる一週間ほど前の6月3日には、家族で
結婚45年を祝った。

最期は、妻と二人の娘、弟に囲まれて息をひきとった。

葬儀は家族だけで13日におこなわれ、14日のお別れ会には1000人近くが集まり、
原田先生との最期を惜しんだ。

・・・・・・・・・・・
●被害者によりそう医師

1934年鹿児島県に生まれた原田正純さんは、熊本大学医学部を卒業(59年)した
翌年、医師国家試験に合格。61年に初めて現地調査のため水俣入りをした。熊大
医学部助手、講師、助教授をへて、99年に熊本学園大学教授、同大学水俣学研究
センター長、2010年に退職し研究センターの顧問に就任した。

水俣病の被害者に正面から向き合う医師としての顔以外に、三井三池炭鉱爆発事
故(1963年)の一酸化炭素中毒患者や、カネミ油症被害者にもよりそう医師だっ
た。世界各地で水銀問題、公害問題に携わる人からの弔意のメッセージも次々に届
いた。

水俣病患者のなかでも、幼少のころから原田先生とつきあいのある胎児性・小児
性患者は、6月初旬、最期のお別れになるかもしれないという覚悟のもと、原田
先生を見舞った。

胎児性水俣病患者・半永一光さんが撮った原田先生のアップの写真は、手ぶれがひどいが、それがかえって、原田先生の笑顔を輝かせる素敵な写真にした。原田先生と半永さんのこれまでの交流の全てが凝縮されているような、とても暖かな一枚だ。

胎児性患者の永本賢ニさんは、原田先生が水俣に診察に来たときにもっていたカバンの中身を覚えていた。カバンのなかは、子どもにプレゼントする人形でいっぱいだったそうだ。そんな話しを原田先生のご家族としているのを、原田先生は、静かに笑顔で聞いていた。

・・・・・・・・・・・・

6月12日、原田先生の訃報に、胎児性・小児性水俣病患者が通う「ほっとはうす」の患者はショックを受け、涙するものもいたという。

熊本水俣病第一次訴訟の原告団長をつとめた渡辺栄蔵さんの孫・渡辺栄一さん(60)は「残念だ」と電話口で私に語った。「原田先生との思い出は、一緒にヨーロッパに行ったこと」。栄一さんは1977年、ポーランドで開催された環境セミナーに、当時、熊本大学助教授だった原田氏や支援者らと出席した。


●個人的な思い

訃報がネット記事に流れだした11日の深夜から、私の心は、水俣病の被害者に寄り添い続けた原田先生を失った悲しみ、喪失感ととともに、これからも水俣病事件の行く末をしがみつくような覚悟で追いかけていかなくては、という気持ちが同居していた。

私が最後に原田先生にお会いしたのは今年の1月、水俣で開催された水俣病事件研究交流会の会場だった。同じ会場で続けて行われた「溝口秋生さん頑張れ 水俣病認定制度の根本を問う水俣大集会」では、原田先生はお疲れになったのか、最初に話をされて、集会の途中で退席されてしまった。

これまでにも何度か原田先生にはお会いする機会があったが、この日に限って私は、原田先生に著書へのサインをお願いした。そのとき、その場に居合わせた知人が原田先生とのツーショット写真を撮影してくれるという機会にも恵まれた。しかしこれが最初で最後の写真になった。

サインをいただいた本は原田先生が「このままでは多数の水俣病患者たちは救われない。その想いで一気に書いた」という『慢性水俣病 何か病像論なのか』だった。原田先生が「挑発の書」と呼ぶ書だ。

原田先生に最初にお会いしたのは4〜5年前だった。
日本環境会議(JEC)の会議の席だった。原田先生はJECの代表理事だった。環境問題の現場を見ることを大切にしているJECは、2008年には、広島県福島市の鞆の浦を訪問。道路開発か景観保護を優先させるかでゆれる地域の人たちの話を聞いた。
同行した私は、この旅で原田先生のお連れ合い、妻の寿美子さんとお会いした。このころ、原田先生の出張先には、常に寿美子さんが同行されていて、その後、東京・立川の講演会でもお会いした。

鞆の浦では仙酔島に宿泊し、夕食後の宴会では、浴衣姿でリラックスされた原田先生の姿が思い出される。原田先生からプレゼントされた『水俣病小史』というブックレットは、ページ数は薄いが、内容は濃く、今でも手元において活用している一冊だ。

●患者に学ぶ

原田先生がよく話されたのが、水俣に通いだしたころ、二人の息子をもつ母親に叱られたという話だ。

縁側で遊ぶ兄弟の症状が全く同じだったので、母親に二人とも水俣病なのかと聞いたところ、「お兄ちゃんは水俣病だけど、弟は違う」というので、どうしてかとたずねると、母親は「先生たちがそういっているじゃないですか」と怒った口調でこたえたという。

母親によると、兄は魚を食べて発病したから水俣病だが、弟は生まれたときから病状があったので水俣病ではないのだという。確かに水俣病は魚を食べて発症するものだ。原田先生も一瞬納得した。すると、母親は続けて、

「先生たちは魚を食べないと水俣病にならないといっているけど、私はそう思っていない」と続けた。

母親と家族は、みな水俣湾の魚を食べていたと。
夫は水俣病で亡くなり、長男は小児水俣病(幼少時に発病)になった。その間、ずっと長男と同じ食事をしてきた母親が次に出産した弟は、うまれながらに障害をもっていた。母親には、ほとんど水俣病の症状がみられないのは、妊娠中に体内の水銀がおなかの子どもにいったのではないか−―。そう母親は自分の考えを話した。

原田先生の頭には、胎盤は毒物を通さないという医学の定説がよぎった。しかし、母親の話を「素人考え」として聞き流さなかったことが、後の胎児性患者の水俣病認定につながったのだった。

母親の名は胎児性水俣病患者・金子雄二さんの母親・金子スミ子さん(81)。生前、原田先生が切望してたスミ子さんとの面会は、5月に実現した。

原田先生は固定概念に縛られない人だった。だからこそ、患者の声や現場から学ぶことを実践し、水俣病事件の解明に多大な貢献をした。

患者の言葉に耳を傾ける−−。このことについて原田先生はあるドキュメンタリー番組でこう医学生に語っている。

「強いものと弱いものの力関係が違うとき、中立の立場をとるということは、強いものに組することにほかならない。医者は患者の声をきく・・・」

原田先生が先ほどの「挑発の書」を書かなければならない状況にあったのは、水俣病の被害者がおかれている状況に、医学者、専門家が向き合ってこなかったからではないか。

ガン患者の場合、進行の程度によって、ステージ1、2と分類することができる
が、ガン患者はガン患者である。ところが水俣病においては、行政認定された水
俣病だとか、司法認定された水俣病、政治解決による水俣病といった奇妙な表現
が広く浸透している。メチル水銀を経口摂取した人は程度の違いがあれど、みな
水俣病なのだ。


9月29日の追悼講演会で川本愛一郎さんが、原田先生の検診時のエピソードを紹介していた。
昨年行われた患者掘り起こしの一斉検診でのこと。
70代の夫婦がみえた。漁師で、結婚して50年。同じものを食べてきた二人だが、妻の水俣病の症状は軽く、夫は重い。
ふつうの医者は、妻は軽く、夫は重いとそのとおり書く。ところが原田先生は、首をひねりながら、「おかしいね。流産したことはありますか?」と妻のほうに聞いた。
すると妻が「4回しました」とこたえたそうだ。
原田先生は、うなずいて、「つらかったね。その赤ちゃんが、毒を吸い取ってくれたんだね」と話したという。

これは別のところで聞いた話だが、家族に認定患者がいる女性が、かつて医者に水俣病かどうか診てもらいに行ったら、ひどく嫌味をいわれた。そのときの医者の言葉で、その女性は、水俣病かどうか調べることを諦めてしまったという。
もう何十年も前のことだから、といった感じで、あっけらかんと話してくださったが、この女性のように医者にいやな思いをさせられて、水俣病の申請を断念した人はほかにもいるだろう。


追悼講演会で「原田さんは、ニセ学者には全身で怒っていた」と話した佐高信さんは、雑誌『週刊金曜日』に小出裕章さんのことを書く際、原田先生に電話をしたところ、
「自分の場合はチッソという会社(が相手)でした。電力はもっと大きい会社だから、もっと大変だったでしょうね」と語ったとのこと。小出さんを気づかうやさしさを感じたという。

最後に。
原田先生は、水俣病を伝えていく人が必要だと考えていた。
それは当事者である患者だけが担うのではいけないとも。
水俣では、水俣病の語り部を育てる勉強会が発足したそうだ。
私もこれまでに取材させていただいたことを伝えていきたい。
私の声は小さくても。


・・・・・・・・・・・・
↓6月に発表した関連記事↓

水俣病事件の初期を知る第一世代の同志・桑原史成さん、原田正純さんを語る

「水俣病の大なる原因は人を人としてあつかわなかったこと」−原田正純先生をしのぶ

・・・・・・・・・・・・

慢性水俣病・何が病像論なのか/原田正純
原田先生が「このままでは多数の水俣病患者たちは救われない。その想いで一気に書いた」挑発の書


水俣病小史/高峰武
注意:2008年3月に『水俣病小史』を刊行後、2008年から2012年2月までの事象を追加した「増補版」が出版されています。水俣学研究センターでお求めになれます。
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2012年09月13日

蒲島県知事は「本当にやってくれるのかな」と水俣病の患者さん

9月12日の熊本日日新聞に、以下の記事が掲載されています。

水俣病の胎児性患者らが、熊本県知事にケアホームの建設を訴え、県知事が「積極的に検討する」と述べたという内容です。

現在はご家族と生活されている40〜50代の患者さんたちですが、
彼らを介護するご両親は高齢です。(親も子も水俣病であるケースも)
ご両親亡き後の暮らしがどうなるのか、とても心配されています。

記事には書かれてませんが、こんな会話があったそうです。

ケアホームが欲しいという患者さんたちの要望を聞いた蒲島県知事が、
明水園に親と一緒に泊まることができる施設(注:ケアホームではない)をつくったとアピール。

鬼塚勇治さん「街中がよか」
半永一光さん「〜〜〜〜」

半永さんは言語障がいがあるので、彼の言葉を理解することは簡単ではありません。
しかし、長年つきあいのある加賀田清子さんは、半永さんの言葉がわかります。
つかさず、

加賀田清子さんが、「街のなかがいいって」
と、半永さんの言葉をフォローし、県知事に伝えたそうです。


私も水俣滞在中は、半永さんや鬼塚さんとの会話で、何度も清子さんに仲介役になっていただいたことがあります。
具体的な会話のやり取りは思い出せないのですが、
半永さんがいわれた言葉が聞き取れなかったときに、そばにいた
清子さんが、「〜〜〜〜〜だって」
と、教えてくれるのです。
私が「〜〜〜〜〜だったんですね」
と半永さんに確認すると、うん、うん、と笑顔で、大きく頭を縦にふって、「そう、そう」と意思表示してくれるのでした。

県知事のいう施設は、患者さんたちがいうケアホームとは違います。
場所自体は、不知火海が見渡せる素晴らしく景色のよいところにあるのですが、おそらくその点は、健常者にとってはプラス評価であっても、日常的に同じ景色が見える施設に入院されている半永さんや鬼塚さんにとっては、いつもの景色です。

自分で車が運転できる人なら、風光明媚な場所に住んでいても、必要なときは、外食やショッピングができる市街地まで車で行けばいいので不便だとは感じないかもしれません。
しかし、移動にも食事にも介護が必要な彼らの状況を考えると、別のことが見えてきます。

「街中に住む」ということは、
単に生活するうえで便利であるだけでなく、

周囲に人の気配がある。活気がある。
人が行き交う街中で暮らしている。

ご自身の存在が他人と交わる、という点にポイントがあるのではないでしょうか。

水俣を訪問中、街で鬼塚さんに会うと必ず
「明水園にも来て」
といわれます。
たまたま私は、街で鬼塚さんに会うことができました。

しかし、外出のできない患者さんが、明水園にはいます。
彼らに会いにきて!と、鬼塚さんは常に私に会うたびにいいます。

そして私は
明水園のある場所と、人が行き交う場所(街)との距離感を感じるのです。
水俣病患者さんが入院している施設との距離感は、
地理的な距離感だけでなく、気持ちの上での距離感にもつながらないでしょうか。
「水俣」というイメージから、彼らが外されてしまう距離感。
それが意図的でないとしても、out of sight, out of mind という言葉があるように、
目に入らないものは、忘れられていきます。

このことが「街中がいい」という患者さんの言葉に含まれている気がしてなりません。


以前、加賀田清子さんの車イスを押しながら水俣市内の商店街を歩いていたら、すれ違った小学生の女の子2人が、「清子さん、こんにちは」と声をかけてきました。

お知り合いなんですか?と女の子たちに聞くと、小学校に清子さんたちが水俣病の授業をしに来てくれたことがあるとのこと。2人の女の子は学年は違ってましたが、2人とも、清子さんの話しを聞いたことがあるとのことでした。

そうだったんですね、といって、さようなら、と別れました。

こういう会話が生まれるのは、街中が断然多いでしょう。

*  *  *  

本日、小児性水俣病患者の渡辺栄一さんと話しました。
蒲島県知事に会った話になり、
「ケアホーム欲しいって」
「みんなの言っていることを信じて。お願いします」
と知事に伝えたことを教えていただきました。

私には、
「11日に、(県知事と)しゃべったよ」
「僕の場合は、(ケアホームに入れるのは)無理かもしれないけど、僕も入りたい」
「本当に(知事が)やってくれるのかな」
とも。

知事は話は聞いてくれた。
後は、行動にうつしてくれるのか。

そこが栄一さんは気になるようでした。

両親も兄弟も亡くなっています。栄一さんは6月で60歳になりました。

胎児性患者らのケアホーム建設 知事「積極的に検討」
「ほっとはうす」で患者側の意見を聞く蒲島郁夫知事(右)=11日、水俣市
 水俣病患者らの意見を聞くため、水俣芦北地域を訪れていた蒲島郁夫知事は11日、胎児性患者らが介護を受けられる共同住宅・ケアホームの建設を前向きに検討する意向を明らかにした。
 ケアホーム建設は、水俣市の事業所「ほっとはうす」に通う胎児性患者の加賀田清子さん(57)らが、親の死去や高齢化を背景に蒲島知事に要望した。知事は「皆さんに安心してもらうことが重要」「県で積極的に検討する」と述べた。
 県側は、重度の患者が入所する水俣市立明水園を胎児性患者の親も入所できるよう改装したことを実績として強調。これに対し、患者側からは「買い物などに便利な市街地に住みたい」といった声が強かった。松永幸一郎さん(49)は数年前から車いす生活を余儀なくされているとして、補償等級変更への県の協力を呼び掛けた。(石貫謹也) 熊本日日新聞 2012年09月12日
http://kumanichi.com/feature/minamata/kiji/20120912001.shtml


「東京電力」研究排除の系譜  斎藤貴男


消費税のカラクリ  斎藤貴男
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2012年09月03日

吉永理巳子さんの講演「語れなかった水俣病の父を力として」 #minamata

吉永理巳子さんの講演会に行ってきました。
「語れなかった水俣病の父を力として」(水俣フォーラム主催)

もう一度、心のなかでかみ締めながら、一部補足しつつまとめてみました。
こちらにまとめたのは、全体のお話しのうち、3分の1くらいです。
講演内容の詳細は、水俣フォーラムの出版物に掲載されると思われます。


・・・・・・・・・・・・・・・・
吉永理巳子さん 1951年(昭和26年)水俣市明神生まれ。
・・・・・・・・・・・・・・・・


父は36歳で劇症型の水俣病を発病。
当時は「奇病」患者として周囲から見られる。
2年後に亡くなった。

漁師の祖父は発病と同時に寝たきりになり、9年後、水俣病で亡くなった。

いとこには水俣病患者がいる。
私にとって恥ずかしい存在だった。
どうして、人にいえない病気(奇病)になったのか、と思っていた。
町でいとこに会っても
声がかけられなかった。
水俣病患者の親戚だと思われるのが
いやだったから。

長い間、水俣病の本は読んだことがなかった。
原因も知らなかった。
ひたすら逃げていた。
逃げとおせると思っていた。

最初に結婚した夫が所属していた青年会議所で
水俣病についてとりくむことになり
夫の友人が、水俣病の本を夫に貸してくれた。
その本をたまたま私が開いてしまった。
私は43歳だった。
本を読んでみて、初めて、
水俣病は我が家だけの病気ではなかったと気づいた。

幼いころにみたネコが発病して死んでいく風景。
あれは水俣病だった。

父は自分が何の病気が知らないまま
死んでいった。
あれは水俣病だった。

もっと水俣病を知りたいと思うようになった。

父は、もっと生きて、たたかいたかったんだろうな
と、考えるようになった。

もし父が生きていたら、
川本輝夫さんたちと(チッソ本社に座りこんで)自主交渉をしていたんだろうなと。

父のことを考えたら
涙が止まらなかった。

1996年、
東京で行われた水俣・東京展に、父の遺影を展示してもらった。
母と上京して見に行った。
水俣病で亡くなった方の遺影(約500枚)と対面した。
初めて見る顔がほとんどだった。

水俣病は、私の家族だけにおこった病気ではなかった。

遺影の一人ひとりを見て、
それぞれの人生を考えた。

500人の遺影の前に立つと
「あんたは そんな人でよかっかい?」
と、自分を問われている気がした。

母は津奈木の農家出身で、
結婚を機に水俣にきて、タチウオの刺身を初めて食べた。
もし母が刺身好きだったら、
私は生まれていなかったかもしれない。

父のような(重症な)症状だけが水俣病だと思い込まされていたが
私自身も水俣病だ。


・・・
1996年 理巳子さん 政治決着で水俣病の「救済」対象者になる。
1997年 水俣市立水俣病資料館の語り部になる。
・・・


どうやって私は水俣病のことを語りついでいったらいいのか。
公式確認から56年がたつのに
なぜ水俣病は終わりきれないのか。

語り部をやっている水俣病資料館に
いちばん来てくれるのは小学生。
もっとも来てくれないのは水俣市民。

資料館は市民がきやすい場にしたい。
そこで事実を知る。
事実から逃げない。

来年で20年目を迎える資料館には
水俣病で亡くなった方の遺影の展示がない。
なぜ、亡くなった方の顔がだせないのか
考えてもらいたい。

小学生の感想で多いのが、
ネコがかわいそう、というもの。
ネコのフィルムが(資料館の展示に?)多いからだろうか。

ネコだけでない。
人間が何千人と亡くなっている。
そうした方の顔が見えないのです。
命が見えない。
恐さが見えないのです。
だから、遺影をだしてあげたい。

その人にどういうことが起こったのか
たずねてほしいのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・

理巳子さんは、理巳子さんは、水俣病を語り継ぐ会・会長として、
「水俣病資料館に水俣病犠牲者の遺影、遺品展示を」
という呼びかけをされています。


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2012年07月30日

水俣病は終わらない!8・1集会のご案内

水俣病は終わらない!8・1集会のご案内
8月1日(水)午後7時から 
水俣市公民館 2F 第一研修室


水俣病特措法の救済申請が7月31日で締め切られる中、7月だけで3000人近い方々が新たに申請をおこない、全申請者は6万人に及んでいます。一方環境省は被害者の声に耳を傾けることなく、締め切りを強行しています。この特措法手続きや不知火海沿岸住民検診によって被害実態が益々深刻で広範囲に及んでいることが明らかになりました。被害地域は天草上島から下島に至る不知火海全域に及び葦北郡や球磨郡、また鹿児島県伊佐市など行商ルートを通しての被害が明白になっています。また、年齢や暴露時期についても昭和44年以降に生まれた方についても、感覚障害の所見がある方、水俣病症状がある方が数多くいることも明らかになってきました。そして、その事実に目を瞑り、被害者の多くが切り捨てられているのが現状です。
また、被害は水俣市民、不知火海沿岸住民すべてに及んでいることもようやく事実として認識されるようになり、そのことを踏まえた新たな被害者団体「水俣病被害市民の会」も結成されています。そして、本来の被害賠償を求める公害健康被害補償法(公健法)に基づく認定申請をおこなう動きも出てきました。公健法の認定基準である52年判断条件も大きく揺らいでおり、溝口訴訟、関西原告Fさん訴訟の最高裁での決着が図られることになります。水俣病被害の全容解明もおこなわず、水俣病の病像をめぐる議論を回避し、基準の誤りを覆い隠すやり方では水俣病は解決しません。
特措法は加害企業チッソの分社化、責任の免責・消滅をおこない、水俣病の認定申請の終了・幕引きを視野に入れているものです。水俣病事件の本質的解決のためには、加害者がその責任を認め、反省し、被害の全容調査を踏まえ、認定制度の抜本的改革が必要です。特措法救済期限終了を機に、「水俣病は終わらない8・1集会」を関係被害者団体等が集まり、今後の課題を考えていきたいと思います。ぜひ集会の趣旨に賛同いただき、多くの皆さんの参加をお願します。

報告予定
1、 地域外・年齢制限等の特措法の課題 不知火患者会
2、 急増する相談者、その中から見えてくる課題 水俣病センター相思社
3、 第2世代訴訟と認定申請で闘い続ける 水俣病被害者互助会
4、 溝口訴訟が切り開いた認定制度の矛盾 溝口訴訟を支える会
5、 不知火海大検診で見えてきた被害の全容 不知火海沿岸住民健康調査実行委員会
6、 公健法による認定申請による闘いを私たちは始める。  水俣病被害市民の会
7、 その他会場から発言


呼びかけ団体
水俣病不知火患者会・水俣病被害市民の会・水俣病互助会・水俣病被害者互助会・水俣病患者連盟・水俣病東海の会・水俣病センター相思社・溝口訴訟を支える会・不知火海沿岸住民健康調査実行委員会ほか
連絡先;水俣市南福寺108
TEL/FAX 0966-63-8779、TEL 0966-62-7502


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2012年06月25日

「水俣病の大なる原因は人を人としてあつかわなかったことにある」−−原田正純先生をしのぶ



「水俣病の大なる原因は人を人としてあつかわなかったことにある」−−原田正純先生をしのぶ

という追悼コラムを、オルタナオンラインに書かせていただきました。

原田先生.JPG


2010年5月1日に水俣で撮影されたこの写真は、報道写真家・桑原史成さんが企画された写真撮影の現場で、私が撮影したものです。桑原さんが撮影されてきた水俣病の患者さん、ご家族、支援者らが呼びかけにこたえ、同じ場所に集まったのです。ふだんの生活ではあり得ない再会のドラマもありました。
もちろん、原田先生と患者さんの再会も。
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2012年06月11日

6月17日 シンポ 再々度、水俣病未認定問題を問う #minamata

チラシから転載します。
(会場までの地図付きのチラシは化学物質問題市民研究会のサイトのコチラからダウンロード可)


溝口訴訟・Fさん訴訟上告審     国・熊本県の「特措法による幕引き」破綻  
    シンポジウム 再々度、水俣病未認定問題を問う

水俣病はこの5月で公式確認から56年が過ぎましたが、2009水俣病特別措置法による未認定患者の救済は、「7月末で受付締め切り」が強行されんとしています。不知火海対岸・天草で潜在患者への住民検診や申請呼びかけのさなか、特措法の申請者が月々増加する中での、見切り発車ならぬ見切り停車。1995年に続き今度こその未認定問題決着をめざして国が標榜した「あたう限りの救済」は看板倒れ、なおも放置される未認定患者が生ずることは必至です。
他方、2月に高裁で逆転勝訴した溝口チエさん棄却取消・認定義務付け訴訟に対しては、被告の熊本県知事が非情な上告。逆転敗訴により原告が上告した大阪のFさん訴訟ともども、最高裁の水俣病判断が再び問われる事態となっています。高齢の原告が裁判を更に闘わねばならないことには心が痛みますが、かくなる上は、国が頑なに護持し続ける35年前の「水俣病判断条件」の狭隘さを上告審でたださねばなりません。
<来る2013年の国際水銀条約締結までに水俣病の幕引きを図りチッソ免責を果たす>という国・県の目算はすでに破綻しています。東日本大震災の被災地や原発状況も息詰まる展開が続きますが、今回は「水俣病未認定問題」という原点を、現地の皆さんや弁護団のお話からじっくり考えます。皆様のご参集を呼びかけます。

日時  6月17日(日) 12時半開場  午後1時―5時  500円(高校生以下無料)
会場  YMCAアジア青少年センター (在日韓国YMCA) 9階 国際ホール 
(2010年10月以来5回のシンポジウムと同じ会場です)
 東京都千代田区猿楽町2−5−5(JR水道橋から徒歩5分 JRお茶の水から徒歩7分)   
       http://www.ymcajapan.org/ayc/jp/hotel/hotelindex.htm    TEL 03-3233-0611


開会あいさつ                鷹取良典(シンポジウム実行委員長)
報告 溝口さん提訴に至る経緯        高倉史朗(ガイアみなまた)
講演 溝口訴訟・福岡高裁判決と上告審    山口紀洋(溝口訴訟弁護団)
報告 特措法で収まらぬ天草・山間部の潜在患者  谷洋一(水俣病被害者互助会事務局)
   胎児性患者・家族の現状          加藤 タケ子(ほっとはうす施設長)
水銀条約案 第14条「汚染サイト」の問題  安間武(化学物質問題市民研究会)
溝口訴訟上告取下げ要請署名について     平郡真也(溝口訴訟弁護団事務局)
討論 (特措法7月締切問題、2つの行政訴訟上告審の支援等)、アピール採択
懇親会  午後5時30分―7時30分、(当日案内、別会計)
                                                

主催  チッソと国の水俣病責任を問うシンポジウム実行委員会   
〒101−0063  東京都千代田区神田淡路町1−21−7 静和ビル1A 東京・水俣病を告発する会 気付   
連絡先 TEL/FAX 03- 3312-1398(昼留守録)     メール y-kbt@nifty.com(シンポ実行委事務局) 


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2012年05月28日

ギャラリー「てんゆう花」(新潟市)訪問

新潟市北区に3月にオープンしたばかりのギャラリー「てんゆう花」(てんゆうか)を見に行ってきました。
案内してくだっさったのは、映画「阿賀に生きるファン倶楽部」事務局の旗野秀人さん。
(旗野さんは、ほかにもいろいろ肩書きがありますが、とりあえずはファン倶楽部事務局で)

てんゆう花.jpg

ギャラリーのオーナー・高橋裕子さんの長年の夢は、ギャラリーをつくることだったそうで、退職を機に、旗野さんの職場でもある旗野住研に、建築をお願いしたのだそうです。

ということで、案内役の旗野さんは、この建物をつくった張本人でもあります。

s-R0122787.jpg
玄関にひきつめられているのは、阿賀野川の石で、
旗野さんと高橋さんで拾ってこられたそうです。

建物は2階建て。
私が訪問したときは、鳥をモチーフにしたアクセサリーの展示が行われていました。
s-R0122788.jpg
一階には まきストーブがあります。

s-R0122793.jpg
二階と一階は吹き抜けでつながっています。

建物には奥阿賀の杉材や安田瓦が使われているそうで、その土地にあるものが、ぎゅっとつまった空間になっています。

オーナーの高橋さんは、人と触れ合える場所をつくりたいとの思いから「てんゆう花」を始められそうで、夢を行動にうつされた行動力はすばらしいと思います。

ギャラリーオープンのパーティでは、『阿賀に生きる』にも登場する渡辺参治さんが、祝い唄を披露してくださったとのこと。

「てんゆう花」があたたかい空気に満ち溢れているのは、阿賀野川の石や杉、安田の瓦とともに、そこに生きる人々の活力が吹き込まれているからなのでしょう。

この動画は、95歳の渡辺参治さんが今年(2012年)5月4日に映画「阿賀に生きる」20周年&2012年追悼集会「阿賀の岸辺にて」で熱唱されたときの模様です。






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2012年04月27日

振返り「水俣病の教訓を次世代に伝えるセミナー」

環境省が毎年年度末に主催している水俣病をテーマにしたセミナー。
2012年は、2月27日、東京ウィメンズプラザホールで行われた。

水俣病の教訓を次世代に伝えるセミナー
〜水俣病の経験を超えて・若い世代の挑戦〜


まず冒頭、環境省特殊疾病対策室長・桐生康生氏(当時)による「水俣病を取り巻く現状について」という講演で驚いた。

驚き1:
このセミナーの目的を「正確な知識と情報を次世代に届けることが目的」と発言しつつ、水俣病の概要説明では、原因企業チッソの名前が一切でてこなかったこと。「チッソ」に変わる表現として「化学工場」「工場」という言葉を使っていた。パワーポイントには「チッソ」の文字があったのだが、なぜ口にださない?会場に、チッソ関係者が来ていたから遠慮したのだろうか。

驚き2:
水俣病に関する特別措置法による救済策を説明する際、桐生氏が、「環境省としては救済と同時に“絆”修復などにつとめていく」と、「絆」という言葉を使ったこと。広域がれき処理の受け入れ自治体探しで乱用されている(と私が感じている)、あの「絆」である。
これまでに「絆」という言葉が、水俣病関連の説明で使われたことはなかった。絆を修復するといっても、絆が結ばれていた過去があったのかも疑問だ。

驚き3:
水俣病の教訓について、予防を重視し、先手をうつことが大事だと発言していたこと。未だに被害者とは司法の場では真っ向から対立している環境省である。教訓を語る以前に、水俣病の総括も始められない状態ではないのか(水俣病は終わっていないからである)。

また、正しい知識のみではなく、「適切な知識」を広めることが重要と発言していたが、適切な知識とは、正しい知識と何が違うのか。これは、セミナーの最後に聞いたチッソ(JNC)の講演内容を振り返ってみたら、見えてくるような気がした。


今回、おそらく水俣病関連のセミナーに初めて登壇したチッソ。正確には、チッソの利益部門だけを引き継いだ子会社「JNC」の役員が話したのだが、親会社のチッソについての話しが大部分だった。常務執行役員・平田和弘氏の発言にも、驚く部分があった。

驚き1:
驚きというか、毎回感じることだが、水俣病の「患者」に迷惑をかけたという発言はあったのだが、やはり、表現は毎回「患者」であり「被害者」でない点。水俣病慰霊式でも、チッソの会長は「患者」への補償は語るが、「被害者」とは口にしない。
この文脈で「患者」が意味するのは、行政が水俣病と認めた「認定患者」のことであろう。ここ数年は年に0〜2人しか認められていない。下手をすると、年々亡くなられる患者の数のほうが、認定される数より多いかもしれない。行政が認定しない今の状態が続けば、患者数は減少していく。

一方「被害者」は、今回、細野環境大臣や横光環境副大臣がPRしている救済策の対象になる人のことである。先ほどの認定患者よりも、補償(救済策だから救済だが)内容はずっと低い。

認定患者は約2200人だが、被害者は、約9万3000人(現在PR中の救済策申請者数 約53,000人+1995年の政治解決による対象者約12,000人 +2005年以降の保健手帳交付者約28,000人などの合計だけで)。チッソが「患者」への補償を口にするとき、9万3000人の「被害者」は入っていないのではないか。

「患者」と「被害者」という言葉の使い分けに気をつけて、毎年、水俣病慰霊式でのチッソ会長のスピーチを聞く。去年も会長は「被害者」とはいわなかった。一方、環境大臣、熊本県知事、水俣市長のスピーチでは「被害者」といっている。

驚き2:
水俣病の発生時には、(原因物質である)有機水銀を検知、分析する技術が未熟だった、と発言したこと。

この発言は何がいいたいのか。

原因物質が有機水銀だと確定する以前に、チッソ工場の廃水が原因であることはわかっていた。廃水の中の何が原因なのかわからないから、廃水を止めなかったというのは、分析技術が未熟なことと関係がない。

原因物質の特定ができていない段階でも排水をとめていれば、被害はこれほどまでに広がることはなかった。まずは排水を止める。引き続き、原因物質の確定については研究を続ければいいだけの話ではないか。

食中毒をおこした弁当の回収を考えてほしい。弁当のなかの何が(ウィンナーなのか、卵なのか)原因かわからないからといって、弁当の回収を先送りにはしないということである。

驚き3:
「チッソは倒産以上の苦難を味わっている」と、被害者のいる会場で発言したこと。

チッソの後藤会長(当時)が社内誌の念頭所感(2010年1月)で「水俣病の桎梏からの解放される」と発言し、水俣病問題からの撤退を急ぐ本音を見せた一幕と同じものを感じた。



ここまで書きながら、セミナーの狙いが見えてきた。
(復習になるが)
このセミナーの目的は、水俣病の正確な知識と情報を次世代に届けることが目的。(桐生氏)
正しい知識のみでなく、適切な知識を広めることが重要。(桐生氏)
具体的には
 チッソという代わりに「化学工場」と説明。(桐生氏)
 水俣病の救済策に「絆」の修復も加える。(桐生氏)
 予防が大事。先手をうつ。(桐生氏)
 当時の技術では、有機水銀(原因物質)の検知や分析が未熟と説明。(平田氏)
 チッソは倒産以上の苦難を味わっていると主張。(平田氏)

正しい知識のみでなく、適切な知識?

セミナーでは、水俣と新潟の語り部の方、地元で街づくりなどに関わっている方の講演もあった。こうした方たちの講演とあわせて、環境省やチッソ(JNC)の講演を聞いてわかるのは、「水俣病の教訓を次世代に伝えるセミナー」という名のもとに集められた人たちでありながら、目指す方向は違っているということだった。

歴史は強者によって語られる――。
このことを肝に銘じ、被害を受けた人にとっての水俣病を、語り継いでいく必要性を強く感じた。一般的に、最も簡単にアクセスができる水俣病の情報は、環境省が発信しているものかもしれない。「水俣病の経験と教訓」といった冊子を作成・無料配布できるリソース(税金他)をもっているのは環境省だし、国際会議で各国代表・外国メディア向けに水俣病のプレゼンをするのも環境省である。外国メディアにとって、環境省が英語で無料配布している冊子は、貴重な情報源になる。

インターネットを見れば、多様な発信者による水俣病についての記述を見つけることができる。ここに可能性を感じないわけではないが、現実的には昔と変わらず、テレビや新聞が多くの人にとっての情報源であることは覚えておきたい。


プログラム(会場配布のチラシを元に編集)
13:00〜 開催主旨説明 水俣病を取り巻く現状について
環境省 特殊疾病対策室長 桐生康生(氏)

13:15〜 体験談、伝えたいこと
水俣地域語り部:杉本 肇氏
  新潟地域語り部:山田サチ子氏

14:15〜  もやい直しから「環境モデル都市」づくりへ
吉井 正澄氏(元・水俣市長)

14:45〜  (休憩)

15:00〜  水俣の挑戦 「あばぁこんね」
福田浩樹氏・高倉草児氏・澤井健太郎氏・井上章久氏

15:30〜  新潟の挑戦 「阿賀野川え〜とこだプロジェクト」
山口 庫幸氏・こっこ(板屋越由希氏・山口茉依氏)

16:00〜  みなまた環境大学カリキュラム提案賞の創設について
JNC株式会社 常務執行役員 平田和弘氏

16:15〜  まとめ 環境省


posted by みの at 15:57 | TrackBack(0) | 水俣 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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