2013年03月21日

2013年03月20日のつぶやき























ジェンダーと女性 田端泰子

この本に収録されている、「高群逸枝をどう読むか」が読みたくなるだろうと、数日前に書いたが、読み終えた。
この章の構成は以下のとおり。

表現の呪力−文学の立場からー 石牟礼道子
高群逸枝の近代家族論 西川祐子
高群逸枝の女性史像 栗原弘
高群女性史をどう受け継ぐか? −ジェンダーと「言説の政治」をめぐって− 上野千鶴子


高群逸枝が『招婿婚の研究』執筆において、参考にした先行研究の意図的な操作・改竄をしていたことを栗原氏が述べている。そのなかで高群が『招婿婚の研究』の「結語」で、「私の信条としては、ただひとつの「真」の前にひざまずき、「真」以外は見ず、「真」以外は語るまいという必死の誓いがあるだけであった」と書いているのに。そのことと実際の不一致を、栗原氏は「学説創作の思想的背景」としてこう述べる。

すなわち、男性による女性支配は、古代からの宿命であるとする説を打破し、男性を中心にした歴史とは、別個の価値体系を示し、男性史から女性史を自立させ、女性解放の歴史的根拠を打ち立てることが、目標とされていた。
ところが、高群の目標とは裏腹に、(略)高群が発見した事実と、彼女の理想とは、明らかに食い違っていた。(略)『これでは女性の歴史にならない』、と高群は考えたのであろう。そこで彼女は、男性ばかりを中心にした歴史書に対決するため(略)学説を創作した。
(略)すなわち、自分の理想を発見できなかった高群は、自らの手で男性を中心とした歴史を正反対に転覆させ、『招婿婚の研究』の中で、「女性の歴史はこうであって欲しい」、とする理想的な社会を創作した。書かれた歴史の中で、女性の解放を果たしたのである。(P242~244)


そのあと、平塚らいてうの「元始女性は太陽であった」という言葉とともに、高群の『招婿婚の研究』は、

自分たちの主張していることが、事実に基づいているのか、いないのか、それは問題ではあったのではない。
「山を動かせるのか、動かせないか」、それが問題であったのである。(P246)


と結んでいる。

石牟礼道子さんの『苦界浄土』がノンフィクションでなく、私小説である意味を、思わず、重ねたくなった。
posted by みの at 00:01 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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