2014年09月05日

2014年09月04日のつぶやき















































洟をたらした神 吉野せい

百姓として生きた吉野せいの綴る言葉は、土と厳しい自然のなかで生きた人だからこそでてくるものなのでしょうか。
どこか石牟礼道子を思わせます。

夫である混沌を亡くしたあとに、草野心平と交わされる言葉が、せいが書くこと決意するきっかけになっています。まるで、二人の間に交わされた魂の言葉が、こちらにも伝わってくるかのような迫力です。
心平は、せいの両手を握りしめたあと、こういいます。


「あんたは書かねばならない。私は今日混沌の碑を見るためと、あんたにそれをいうために来た」
私はぐっと胸に応えた。

「いいか、私たちは間もなく死ぬ。私もあんたとあと一年、二年、間もなく死ぬ。だからこそ仕事をしなければならないんだ。生きているうちにしなければ――。わかるか」

「わかります」

「わかったらやれ。いのちあるうちにだよ。死なないうちにだよ」

「正直いえば――」
私は少し吃った。

「混沌がのこしたものだけを整理することなどでなく、はっきり離れた自分自身が書きたいものを書けたらと思います」
私は相手の眼玉に自分の視線をつきさしていった。

「それだよ。自分のものを、わが一つの生涯を書くことだ。あんたにしか書けない、あんたの筆で、あんたのものをな」

だけどこの私にどれだけの力が――。もぞもぞ不安をいおうとしてびしり叩き伏せられた。

「生命がないんだ。無駄に生きられない息のある限りの仕事だ。何でもいいから書けよ。ね。一年、二年、私もあんたも、いいか、わかったか」

「はい」
私は大声ではっきり答えた。老いかれた身内に熱いものが流れるように覚えて、その直截な真情に何か知らず涙がこぼれそうになるのをぐっとこらえた。

『信といえるなら』より


別の本で、吉野せいについて読んだときに知ったのですが、確か若いころ(10代とか20代)で書いた作品が認められて、原稿の依頼が入るようになったのを、そのときの師匠だったかが、まだ書くのは早いと、すべて断ってしまったと書いてあったように思います。
その後、せいは結婚し、農業に従事し、それまでに書き溜めていた日記などを全て捨てたとか。

混沌が亡くなったとき(1970年)、せいは70か71歳(1899年生まれだから)。
草野心平からの勧めもあって、書きはじめた作品『洟をたらした神』は1975年にで第六回大宅壮一ノンフィクション賞受賞、第十五回田村俊子賞を受賞する。
77年没。

人生の最後の最後に、書くことをやり抜かれたことに、心から感謝します。

そして、草野心平という人の存在感。
私がここ数年、見聞きしたものごとのなかに、何度も登場する名前です。

吉野せいに、あのとき、「何でもいいから書けよ」と、いっていなかったら、『洟をたらした神』は生まれていなかったのかもしれません。

草野心平は1988年に亡くなっています。

いわき市立草野心平記念文学館のサイトを見ると、
「草野心平ゆかりのいわきの詩人・作家」として、

吉野せい(よしの せい)
三野混沌(みの こんとん)

とありました。
一度、訪れてみたいものです。
posted by みの at 00:01 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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