2014年05月27日

奪われた言葉の代わりに、写真が水俣病を伝えてくれた #minamata

もう7年も前のことになるが、2007年に水俣病資料館で「水俣を見た7人の写真家たち展」が行われ、7人の写真家によるシンポジウムが行われた。

それほど広くない会場に、たくさんの人が話を聞きに来ていた。
そのなかに水俣病患者の杉本栄子さんの姿もあった。

シンポジウム後の質疑の時間に、栄子さんは手をあげて発言をされた。
その発言を聞いて私は、強い衝撃を受けた。

栄子さんの発言に、身も心もつかまれてしまったような一撃を忘れることはできない。

あのとき栄子さんは、水俣を撮影してきた写真家たちに感謝の言葉を述べていた。

水俣病が「水俣病」と呼ばれる以前、「奇病」と呼ばれ、伝染病だと思われていた1950〜60年代、栄子さん一家は、家族同然の付き合いをしていた親戚や近所の人たちから、徹底的に村八分にされた。

家族の身におきた病気について口にすることを、世間は許さなかった。
言葉を奪われた栄子さんは、「おはようございます」と挨拶することも許されなかったという。

桑原史成さんをはじめとする写真家たちが水俣で撮影を始め、雑誌などに発表されると、世間の関心が水俣病に注がれるようになった。

栄子さんに代わって、写真が、水俣で今、何が起こっているのか伝えてくれたというのだった。

「水俣へ来られた写真家の皆さんが、言葉を発することの許されない私たちの代わりに、写真で水俣を伝えてくれた。だからこそ、今がある」

「私は感謝しています。もの言えなかった私たちが、言えるようになったっです。それはみなさんの写真のおかげです」


20070430杉本栄子.JPG
2007年4月撮影 水俣病資料館にて 発言する杉本栄子さん。

杉本栄子さん

1938年生まれ。漁師の家に生まれる。
3歳から父に漁を教えてもらう。
1959年、母が水俣病で入院。杉本家に対する差別が始まる。
    結婚。栄子も発病。
1969年、父が水俣病で亡くなる。
1969年、水俣病の原因企業チッソに賠償を求める裁判の原告になる。
   (熊本水俣病第一次訴訟)
1973年、第一訴訟勝訴
1974年、栄子 水俣病患者認定
1981年 夫 水俣病患者認定

2008年2月28日、永眠




「闘いを教える人も全国から来てくださる。写真家も全国から来てくださる。このことが世界につながった。
 でも、この人たちに頼とっていいのか。俺たちゃ、ここで死なんばならないとやろが、闘いも争いもなくすためにはどうすればいいのか。
 ものを言えない、標準語も言えない、漁師である私が(資料館の)語りにならせていただいたってことは、水俣のことは水俣んもんじゃなからんば解決しならんとじゃなかっただろうか。
 私は考えました。だから、標準語も、やっとやっと、ちった言えるごっなりましたばってん、語り部になりました」

栄子さんは1995年、水俣病資料館の語り部になった。

語り部をしている栄子さんの映像がふんだんに使われているのが、西山正啓監督の2014年の映画『のさり』だ。

西山監督いわく、栄子さんは、「水俣病の過去・現在・未来」の全てを体験した人だという。
そして、栄子さんの語りのなかには、その全てがあるという。
映画は、そこを描きたかったそうだ。

「闘いも争いもなくすためにはどうすればいいのか」と、資料館で発言された栄子さんは、
自身が経験した水俣病の過去と現在を語り、さらに、未来の水俣はこうあってほしいね、と話していたと思えてならない。

栄子さんが経験した水俣病の過去には、水俣病で奪われてしまった日常生活。
拒絶された人間関係と、人様からの残酷な仕打ちがある。
これは、栄子さんたちがチッソを被告にした裁判に参加することで、さらに激化した。

裁判原告になったのは、29世帯。
この時期、原告家族は隠れるようにして生活をしなければならないほど、世間から忌避されていた。
当時の栄子さんたち原告家族の苦しみを見落としてしまえば、栄子さんの言葉の重みも、水俣病事件が教えてくれる教訓も、その意味合いが変わってしまう。
この時期、栄子さんたちが耐え抜いた人様からの残酷な仕打ち。
このことを考えずして、水俣病事件は語れないのではないか、と私は思う。

映画では、語りに加えて、栄子さんが小学生に「2001水俣ハイヤ節」を教えるシーンがでてくる。
子どもたちの前で踊ってみせる栄子さんは実に、いきいきとしている。
もし「2001水俣ハイヤ節」が、百年後の水俣でも踊り継がれていれば、こどもたちは踊りがつくられた理由を考えてくれるかもしれない。そして、自分たちが住んでいる町に、水俣病事件があったことを知ることになるかもしれない。
栄子さんは水俣病の歴史を「芸能」で残したいと考えていた。

栄子さんにとって、ハイヤ節を子どもたちに教えることは、未来を生きることだったのだろう。

実際、ある水俣の小学校で踊られたハイヤ節の輪には、チッソの子どもと患者の子どもが一緒に踊る姿があったという。

映画のなかでは、はつらつとハイヤ節を踊る栄子さんだが、そのころから体調はよくなかったと西山監督はいう。

2008年、栄子さんは69歳で亡くなった。


今でも毎年、栄子さんの命日にはご縁のあった人たちが集い、栄子さんとの縁(えにし)を語り合う。
今年行われた栄子さんの七回忌では、『のさり』が上映された。
かつて、語ることを禁じられた栄子さんの言葉は、写真がその代わりを果たしたように、
映画『のさり』は、故人となられた栄子さんの代わりとして、多くの人を魅了していくだろう。




写真集「水俣を見た7人の写真家たち」




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2014年05月26日のつぶやき
































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